北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第4節 農民の負担

5 国役と夫役

国役      
国役とは、国を単位として課した臨時の課役であり、江戸時代では主に大河川の川除(かわよけ)普請(堤防を堅固にし、川底を浚い、河川の氾濫を防ぐ工事)を目的として行われることが多かったが、ほかに、朝鮮や琉球からの使節の接待費や将軍の日光社参費用、あるいは禁裏造営費などの名目で賦課する場合があった。
河川の改修は、元来は、幕府がその費用を全額負担する(公儀御普請)か、大名が領内について行う(私領普請)か、農民が村内について自分たちの費用で行う(自普請)かのいずれかで行われていた。しかし、公儀御普請では幕府の財政を圧迫することになり、また、後二者では一つの河川について数多くの小領主の領地が関係している場合、総合的な治水工事を行うことができないといった問題が残る。そこで、享保五年(一七二〇)に、新たに国役普請の制度が設けられたのである。これにより、川普請費用が一定額をこえた場合には、河川の沿岸とその近隣の国々で、幕領・私領・寺社領の区別なく石高に応じて賦課されたのである。そして、費用負担については
国役割合の節、御料の用高は十分の一公儀御入用に相立て、その跡を国役に極め、私料願いにて普請これ有り候分は、村高百石に付き十両ずつ差出させ、惣入用高の内右の分これを引き、残高の内拾分の一公御入用に相立てその残を国役高に相極めべきこと(『日本財政経済史料四』P八二一)
とあり、幕府も総額のー〇分のーを補助することにしたのである。ただし、一国を支配する大名領と二〇万石以上の大名領の河川については、今まで通りその大名が普請の義務を負うことにしたのである。このように、一部を幕府負担としながらも、基本的には農民にその負担を負わせて費用を捻出し、大規模な川除普請を行ったのである。本節第一項「年貢の種類」の天保十五年(ー八四四)「下石戸上村新田年貢皆済目録」(近世No.九八)をはじめとして、頻繁に見られる「川々国役」というのがそれである。
次に、朝鮮通信使(朝鮮では遣日使節を通信使といい、答礼の場合は報聘(ほうへい)使または回礼(かいれい)使とよんだ)の来朝に当っては、「朝鮮人国役金」として東海道諸国村に課徴された。例えば、享保六年(一七ニー)三月の「亥の年朝鮮人来朝役銀帳」(近世No.二九)は、亥の年(享保四年)の朝鮮通信使の来朝に伴う国役金の取立帳であるが、高ー〇〇石に付き金三分と銀五匁の割合で賦課されており、下石戸上村では金二両一分と銭一貫六文をーニー名の農民で負担していることがわかる。
また、同様のものとして「琉球人国役」日光社参と京都上洛などがあった。

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