北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第4節 農民の負担

6 助郷の成立

在郷馬の徴発        
宿駅には一定数の人足と馬とが準備されており、これを御定人馬(おさだめじんば)または宿常備人馬などとも言っている。幕府の御用(公用)通行や大名の参勤交代による大名行列、または多くの商品荷物の輸送などで、多くの人足や馬を必要とする場合には、宿駅に備えられている御定人馬のみでは不足することになり、その不足分を宿駅の近隣諸村から雇って補足した。こうした方法で村々から出す人足や馬を助郷役といい、その村を助郷村といって区分するが、両者を合わせて単に助郷ともいう。助郷は江戸時代を通じて最後まで残った夫役の一つであった。
徳川氏によって中山道の宿駅が設置されたのは慶長七年(一六〇二)であるが、その時には特に御定人馬の規定がなく、翌八年御崇宿などには一〇人・二五疋との規定があるから、この数が御定人馬と考えられる。助郷とは宿駅での御定人馬のみでは不足する分を補充するものであるから、中山道の助郷は慶長八年以降に成立することになる。しかし、それでは御定人馬の規定のない脇道などでは、助郷がなかったことになってしまうという問題が生じてしまう。今後、新史料の発見によっては慶長八年以前に御定人馬が定められている可能性もあるし、御定人馬の規定がなくても、助郷の役目を果たすことがあるかもしれない。
市域の村から助郷として人足や馬を提供する宿駅は、中山道の桶川宿または鴻巣宿であるが、それ以外の道においても助郷がなかったのであろうか。たとえば、徳川家康が鴻巣周辺へ鷹狩りに来た時や、石戸の御茶屋に立ち寄った折りなどに、近隣の村から人足や馬が集められたことがあったかも知れない。
江戸幕府が中山道の宿駅に対して在郷人馬の使用を命じたのは、元和元年(一六一五)十一月がはじめてである。それによれば駄賃馬(有料の馬)を多く必要とするときには、近在近郷の馬を雇って荷物を遅滞しないように継ぎ送ることを指示している。この法令はその後何度も繰り返して発せられているので、宿駅での継送りを円滑にするための基本的な在郷人馬の使用令であるといえよう。
元和五年(一六一九)江戸幕府は中山道の各宿駅に人足と馬の提供を命じたが、これは通行量の増加に対して抽象的な規定では円滑な輸送ができない実情にあったので、宿駅ごとに在郷人馬の使用を強制的に認めたものである。従って、在郷人馬使用の実態によって考える必要があろう。すなわち、大通行による在郷人馬の使用は以前からあったが、臨時的でかつ徳川氏の江戸入封や関ヶ原の戦いなど、当面する政治的・軍事的問題が山積しているころは、具体的に法制化するに至らず、やがて次第に在郷人馬の出役が回数的に多くなると、その出役に一定の規定が設けられてゆくのである。

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