北本市史 通史編 近世

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近世

第2章 村落と農民

第4節 農民の負担

6 助郷の成立

助郷制の成立        
元禄二年(一六八九)幕府は助郷の実態調査を行い、四月大宮宿が提出したものには、定助村六か村一八六二石余は大宮宿から一里八丁以内、大助村一七村三八九五石余は同じく二里二ニ丁以内にあった(前掲書)。また、支配関係をみると定助村は旗本知行所二村、幕領四村、大助村は全てが幕領となっている。先の寛文八年(一六六八)の定助願いに見られた八か村のうち、元禄二年の定助村に見られるのは四か村であるから、願い通りには認められなかったのであろう。
同年八月熊谷宿から出役を遅滞する助馬村があるとして幕府へ訴えた結果、元禄二年八月幕府が作成した書状の中に助馬村の書上げがあり、それによれば大助村一五か村一万四一七二石余が設定され、幕府はこれらの領主へも申し付けたので、不同なく触れ当てよと熊谷宿へ命じている(『県史資料編一五』No.ー九)。それと同時に人馬を出さない助馬村三か村へは、今後人馬が触れられたら遅滞なく出役することを命じている。これは「老中も承知している」と付け加え、もはや人馬役が幕府への夫役としての性格を意味し、宿駅からの割付もまた公権として認められたことになる。
元禄二年(一六八九)における大宮・熊谷宿の助馬村について比較すると、大宮では定助・大助という二つに区分された助馬村があるが、熊谷宿は大助のみである。また前者の助馬村の合計が二三か村五七五七石余であるに対し、後者は一五か村一万四一七二石余であるから、同一街道の宿駅にあっても異なる助馬村が設定されていたことになる。熊谷駅では同七年二月に幕府から助郷証文が与えられ、それには大助郷一六か村一万五四三三石とある。同二年の助郷とを比較するとーか村ー三〇〇石余増加しているのみであるから、元禄二年の助馬村がほぼそのまま指定されたといえるし、異なる点といえば「助馬勤候」が「助郷申付候」という最後の文面のみである。
一方、桶川宿も前述のごとく元禄二年七月に助郷証文が与えられるが、これにも大助三七か村その高ー万一二五六石を指定して「助郷申付候」としている。いずれも「大助村」であるが、これを大助とするか大助郷と判断するかという問題は残るが、言葉のみからは判断できないであろう。
元禄二年の助郷調査は同七年の新しい助郷制度を目的として実施されたが、その後の通行量の増加はその対応策をも不充分とし、やがて享保十年(一七二五)には定助郷・大助郷の区分を廃止して、共に定助郷に改定されていくのであった。

<< 前のページに戻る