北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第1節 村落の推移

1 村の概況

高尾村
古くは「田高(たこう)村」と称し、高い所を意味するタッコが転訛(てんか)したもので、「高尾村」はその当て字という(『埼玉県地名誌』)。元和検地のとき石戸村から分村した。旗本牧野氏の領地で、検地は寛文八年(一六六八)と思われる。村高は『武蔵田園簿』で三七六石余、うち田五七石余(一五・〇パーセント)・畑三ニー石余(八五・〇パーセント)、『元禄郷帳』では四五八石余。荒川岸に持添新田が二か所あり、上沼新田・高尾新田と称し、ともに幕府領であった。荒井・下石戸上・下石戸下・石戸宿の四か村と、秣場(まぐさば)への入会権(いりあいけん)や荒川の河川敷の開発をめぐって論争が絶えなかった。また、高尾河岸には船問屋が三軒あり、近郷の村々の年貢米をはじめ諸物産を江戸方面に運んだ。高札場は村の中央にあった。鎮守は文明五年(一四七三)に大宮氷川社を勧請した氷川神社で、荒井村とその枝郷北袋の鎮守も兼ねた。このことは、高尾村と荒井村がかって一村であったことを物語っている。神社では他に弁天社・天神社・八幡社・雷電社・牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)などがあった。寺院は氷川神社別当の当山派修験で古くは大光院と称した慈眼山泉龍寺、新義真言宗西亀山無蛍寺泉蔵院(同末)、本山派修験玉蔵院があった。化政期の家数は一六〇軒余であった。主な物産に、米・大麦・小麦・大豆・小豆・粟・誨麦・里芋・白木綿・茶・綿などがあった。       

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