北本市史 通史編 近世

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第2章 村落と農民

第4節 農民の負担

8 人馬賃銭と人馬役

桶川鴻巣間の人馬賃銭
慶長七年、中山道に宿駅が設置された時に定められた御定賃銭は鴻巣・熊谷間が本馬ー二文であるの人馬賃銭が、鴻巣・桶川間は不詳である。
その後、時代の下降と共に改定があり、正徳元年(一七ーー)五月に定められた駄賃銭が、元賃銭として以後の駄賃銭の基準となり、値上げは元賃銭の何割何分増しというようになった。桶川・鴻巣間の駄賃銭を示すと次のようになる。

寛文五年正徳元年
(元賃銭)
寛政十一~文化五年
(一割五分増)
文化六~文政九年
(四割五分増)
本馬五四文七一文八二文ー〇七文
軽尻三五文四六文五三文六七文
人足二七文三五文四〇文五一文
寛文五年(一六六五)の人馬賃銭が初見であり、それによると本馬(四〇貫目)五四文、軽尻は三五文で本馬の約六割五分、人足が二七文で本馬の五割にあったっている。一般的な比率は、本馬の三分の二が軽尻、本馬の二分の一が人足という割になるので、桶川・鴻巣間の比率もほぼそれに近い数値になっている。また駄賃銭は平坦地や坂道などによって高低があり一様ではなかった。
その後、正徳元年(一七ーー)にいわゆる元賃銭が定められるが、寛文から宝永年間までの四六年間の変動については未詳である。
駄賃銭の配分はどの様になるかというと、年未詳であるが本馬八二文のうち刎銭(はねせん)六文・口銭二文を差し引いて残りの七四分が渡し分とあるから、これが出役した馬と馬士に支払われる額である。ちなみに人足は刎銭三文・口銭一文で、残る三六文が人足に支払われるとある(鴻巣市伊東正夫家文書)。文政四年の改定では増四割五分のうち七分五厘を宿助郷の人馬・一割五分を助郷惣代・二割五分を刎銭(はねせん)にせよとしている(近世No.一七九)。刎銭とは、元来駄賃銭は馬役又は人足役を勤めた者に全額支払われるべきであるが、その一部にあたる部分を上前(うわまえ)として宿駅が取る部分をいい、これは宿駅の収入となり宿財政として組み込まれる。口銭とは問屋が手数料として駄賃銭からその一部を差し引く部分をいい、問屋の収入となった。

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