北本市史 通史編 近世

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近世

第3章 農村の変貌と支配の強化

第4節 身分制度と差別の強化

1 身分制度の成立

戦乱に明け暮れた戦国時代、全国統一を目指した豊臣秀吉は、天正十八年(一五九〇)関東の後北条氏を降し、さらに東北地方を平定すると、ここに念願の全国統一を果たした。
秀吉が全国を統一し、支配するために執った施策は「太閤検地」と呼ばれる検地や、武士と農民を分離する刀狩りなど幾つか上げられるが、全国統一を果たした翌年の天正十九年、身分令を発令した。武士が農民や町人になることや農民が町人になることを禁止したものである。これは武士、農民、職人、商人といった身分の固定化を狙ったものにほかならない。江戸時代になっても、この施策は徳川幕府によって引き継がれた。幕府財政の基盤となる年貢を負担する農民に対する施策は極めて重要であり、農政の基本を表しているといっても過言でない。それを端的に表しているのが、慶安二年(一六四九)の「慶安御触書」である。幕府は、農民に対して農業を奨励するとともに日常の生活では質素倹約を強要した。「年貢さへすまし候得ハ、百姓程心易きもの八無之」(年貢さえ納めれば、百姓ほどのんきな者はない)といい、「百姓は生かさぬよう、殺さぬよう」というのが幕府の姿勢であった。
このようにして農民の身分の固定化が進められたが、農民の抱く不満を和らげるために新たな身分制度が作られた。すなわち、士(武士)・農(農民)・エ(職人)・商(商人)といった身分の下に、さらに身分が低いえた・非人と呼ばれる最下層の身分を作った。農民たちは、日々の苦しい生活のなかで、身分的にはさらに自分たちよりも下層の人々がいることで忍耐を強いられた訳である。
これらの人々のうち、えたは長吏とも呼ばれたが、戦国時代には農業のかたわら武具などに使う皮を生産する「かわた」と呼ばれる人々が多かったと言われている。かわたは、特に死牛馬の処理やその皮を取り扱ったため、それを穢(けがれ)れとする人々の意識から他の職人たちと区別され差別されていた。しかし、えた(長吏)も村内にあっては田畑を耕し、年貢や夫役を負担するごく普通の農民もいた(吉見町 鈴木家文書)。
非人は、中世では一般に身分秩序から外れた人々に対する漠然(ばくぜん)とした呼び名であったようだが、江戸時代には、代々の非人筋と呼ばれた人々のほか犯罪や貧困などにより没落した人々が含まれていた。ところが、差別された人々がさらにお互いに反目するように仕組まれていた。すなわち、非人は本来物貰いによって生計を立てていたため、えたよりも低い身分とされえたの支配に属していた。しかし、非人の中で生活苦等から町人や農民が没落して非人となった者は、非人となって一〇年以内に縁者から願出があれば、「足洗い」といって平人に引き上げることが許された。
えたは、自分たちは非人より身分が上だと思い、一方非人は、自分たちはえたと違ってえたにはできない「足洗い」が許されていると、お互いに優位性を主張して対立していた。
幕府はこうした人々を身分制度の最下層に位置付け、居住地は村はずれや山間部の生活条件の劣悪な場所に限定して他地域への移転を制限したり、他の身分の人々との結婚を制限するなど生活上も様々な厳しい制限を加えた。そして、こうした身分が確定していく時期は、十七世紀後半の寛文・延宝期(一六六一~一六八〇)といわれ、この時期の宗門人別帳では、えたの分だけ末尾にまとめて記載したり別帳が作られたりした。
以上のように、町人や農民は、えた・非人を自分たちより身分の低い人間として差別したが、これに対してえた・非人は、後述するように幕府の探索方の助手となって町人や農民の違法行為を取締り、監視する役目を与えられた。この点でもお互いに反目するようになっていた。
このように彼らはそれぞれが優位性を主張しつつも、他方では絶対に逃げ出せないような負い目を与えられ、お互いに反目・反発しあうよう仕組まれていった。これが幕府がとった民衆の分断支配体制である。

<< 前のページに戻る