北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第1節 豪農の成立

2 土地の集積

表35 売渡・質地証文にみる田畑の面積 付屋敷・山のか所数

(延宝4~弘化2年 質地証文より作成)

延宝四年(一六七六)から弘化二年(一八四五)までの一七〇年間の一七四通にのぼる質地証文を在郷有力農民の土地の集積という側面から分析してみる。いま、二〇年ごとに区分して田畑の面積を集計してグラフにしてみたものが表35である。田と畑の割合もわかるようにした。ただし、屋敷と山は面積の記載が無かったので箇所数を別に記載した。また、同時に屋敷・山を含めて質地を担保にどのくらいの金額を貸付けたかを同じグラフに書き入れてみた。
それでは、表35のグラフをみながらどのような経過をたどって土地を集積していったかを見て行こう。
いま、一七〇年間に集積した田畑としては、田が一町二反九畝九歩、畑ー九町五反四畝二七歩、合わせて二〇町八反四畝六歩となる。このほかに山一九か所、屋敷二か所があり、これは面積が出されていないので詳細は不明である。そして、この田畑や山・屋敷などを集積するに当たって貸付けた金額をみると、ーー五七両一分二朱となる。
集積した面積の変遷をみると、一七〇ー~一七六一年までの六〇年間に比較的集中している。また、これにともなう貸付金額の変遷をみると、大きく三つのピークがあるが、最初のピークである一七〇ー~一七ニー年までの金額が三五二両余と最も多いが田畑の面積に比例していない。ピーク五か所について、貸付金が一部田畑と合算してあるため総額が不明ではっきりしないが、正徳五年(一七一五)の証文(矢部洋蔵家五一三)で五反二畝一四歩を七六両で貸主に渡し、以後請け返しをしないと書かれている。それにしてもこのころは下畑二反歩で約二七両位で多少疑問は残る。いずれにしても、証文数と集積した田畑とをグラフでみると、ほぼー致し十八世紀前半に集積したことが分かる。もちろんこれらの中には年季が明けて請け返された田畑もあったと思われる。
ところで、一七四通の証文のなかには享保十八年(一七三三)から明和七年(一七七〇)までの三七年間に鴻巣宿の新右衛門宛に出された質地証文がニー通含まれている。これは一度村内の者が鴻巣宿の新右衛門に質入れした後、流れ地などになって新右衛門の手に渡った田畑を今度は新右衛門が村内の名主家に質入れしたものと思われる。
この、質入主には、村内の者ばかりでなく下石戸上村・高尾村・北袋村(以上北本市)・鴻巣宿(鴻巣市)・上日出谷村(桶川市)・小泉村(上尾市)などであった。このように質入れ地は村内のみならず周辺の村々にも及び、質取主は不在地主となったのである。
借用金の使途には、一般的な年貢納入のためという差し迫ったものでなく、江戸に奉公にでた伜が病気で帰って来たため、前借りの身代金を返さなくてはならなくなったといったものもある。
このように、荒井村の名主家は田畑を集積を進めながらその経営規模の拡大を図り、多額の資金を運用していった。
なお名主家が、延宝四年(一六七六)の時点でどのくらいの資産を所有していたかは不明で、史料で見られる弘化二年(一八四五)までの一七〇年間に総額ーー五七両を投入し集積した田畑二〇町歩余、山一九か所、屋敷ニか所と、幕末にどれだけの資産を保有していたかは明らかではない。しかし、市域の有力農民が江戸時代に活発な経済活動をとおして大きく成長した姿の一端は窺うことができる。

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