北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第6節 人馬役負担の増大と紛争

2 宿駅と助郷の紛争

延享五年の訴状
延享五年(一七四八)四月、鴻巣宿および鴻巣宿と馴れあった定助郷の高尾・荒井・別所・花ノ木・上常光・下常光を相手どって、残りの定助郷が訴えた訴状によれば(鴻巣市藤井文夫家)

① 正徳四年(一七一四)に鴻巣宿の問屋・年寄は宿駅と助郷との人馬の使い方に不正があって訴訟となり、道中奉行の吟味の結果、鴻巣宿では六〇人・九〇疋を使い切った後に一〇〇石につき一人・一疋の割合で助郷に割当てることになったという。しかし近年は鴻巣宿の人馬が不足しているためか、ー〇〇石につき二、三疋または四、五疋の割合で徴発されているので助郷村は難儀している。元禄七年(一六九四)にそれまでの助郷は大助郷に指定されたが、現在は定助郷同様の負担であって、百姓らの農耕にも支障をきたしているので正徳四年の裁許どおりにして欲しい
② 鴻巣宿は御定人馬の外にも宮地から四十年以来人馬の提供を受け、上谷新田からも助郷高を除いては加宿として宿並みに人馬が出されるので、それらを合わせると人馬には余裕がある筈である。正徳四年の裁定に従うべく申し入れたが、問屋側は余計の人馬があっても、幕府からの定めもあるのでその通りにはできないとの答えであった。助郷人馬の遣い方が不埒であると何度も交渉したが、権威をかさにきて我がMであるので、それらを正してもらいたい
③ 鴻巣宿は伝馬役負担の救済として須戸ノ谷新田一〇〇町歩を加宿として加えられているから人馬に不足がない筈であり、正徳四年の出入りの節、宿側から出された人馬役帳の通り人馬役を勤める様にしてほしい
④ 夕方集められた人馬を、翌朝に集められた人馬が到着しても宿人馬不足の理由で返さず、また朝集められた人馬を夜中まで留め置き、昼・夕食をも助郷村から持ち運ばすなど難儀をしている。さらに宿側では駄賃荷物ばかり継ぎ送って、低額の御定人場の荷は運ばず、御朱印荷物までも助郷にて運ばせている。多少でも遅れると暴力を振い助郷村の役人を呼んで証文を書かせている。今後は、出役して用事が済んだらすぐに返し、追触などもないようにして欲しい
⑤ 助郷通帳に日々書くよう問屋に申し入れたが賃銭額も書かず、また取り込みなどといって帳面も返却されないケースや無印もあって不埒である。従って、桶川または熊谷への継送り先と荷数(馬数)と駄賃銭を明確に書き分け、問屋の印形を押すこと
⑥助郷四一か村のうち高尾?別所・花ノ木・上常光・下常光の六か村は、正徳四年の出入りにも鴻巣宿と馴れあって参加しなかったため吟味を受けている。今度もまた助郷一同から洩れたので吟味してもらいたい

以上の六か条について訴え、正徳四年の裁許通りにして欲しいと述べている。正徳の裁許の具体的内容は不詳である。宿駅が助郷人馬を徴発する場合は、宿常備人馬のうち非常時に備える囲人馬を除いた分を遣い、それでも不足する時である。即ち、鴻巣宿の宿常備人馬は五〇人・五〇疋であり、天保十二年(ー八四一)の囲人馬ー〇人・三疋を例にとると、四〇人・四七疋までは宿側が勤め、それ以上については助郷の負担である。その軽減をめぐる利害関係が争いの主因となり、それに付随して種々の問題が発生するのである。この結果については不詳であるが、鴻巣宿と馴れあったとされて訴えられた六か村の助郷村は、なぜ助郷側に同調しなかったのであろうか不詳である。

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