北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第6節 人馬役負担の増大と紛争

2 宿駅と助郷の紛争

文政六年九月の議定
桶川宿は文化七年(一八一〇)と推定される午年の火災で困窮し、宿内で御定人馬五〇疋分の馬を揃えられなくなり、そこで助郷と相談して宿側での不足分を助郷側から負担してもらってた。今度その年季が切れるので文政四年(一八二一)より五ヵ年間さらに助郷側が二四疋分を負担することとなった(近世№一八五)。このように宿駅が負担すべき分を助郷が代わって勤めることを余荷(よない)助郷という。
しかし、この議定が成立したニ年後の文政六年(一八二三)九月には、助郷三七ヶ村が桶川宿の人馬触れをめぐって発生した争論について議定が成立している(近世№ー八六)。議定書の内容はこれまで桶川宿と助郷とが相談して人馬役を勤めてきたが、この度宿役人は先の約束を破り勝手に助郷側の負担が重くなるように触当ててきた。これでは助郷が困るので双方話合いをもって、文政四年八月に成立した議定どおりにする。もし今後宿側が話合いを拒否するなら出訴することを記している。短文の議定書ではあるが、疲弊した桶川宿の馬役の一部を助郷が代役しているのにもかかわらず、問屋をはじめとする宿役人が宿側の負担を軽くするため、助郷に過分の負担をさせていたことが争点になったことが知られる。助郷側三七カ村のうちには石戸宿・下石戸上・下石戸下・上中丸・下中丸・山中・本宿の村々がふくまれていた。

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