北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第6節 人馬役負担の増大と紛争

2 宿駅と助郷の紛争

文政十年十一月の裁許書
文政一〇年(一八二七)ーー月の道中奉行の裁許写しは、宿駅の人馬使用について助郷と争論になり、その裁定である(近世№ー九〇)。それによると、上尾・桶川・鴻巣の三か宿を対象として、代官所手代が日々使用した人馬数を記録した日メ帳の検閲を行った。前年一か年分についての日/帳を、中山道の出入口である板橋宿の帳面と突合わせた結果、桶川宿では通行していない大名の荷物を継立てたり、通行したはずの大名荷物の記述がなかったりしていた。ーか年間で使用しないのに使用したように記入された分ー二六人余・二五一疋、反対に記入もれは人足九〇人余・馬一〇七疋余にのぼった。また、加賀百万石の前田氏の家臣については他宿より多く人馬を使用していると指摘された。この咎で宿役人及び助郷惣代はそれぞれ過料銭を申しつけられることになつた。
一方、上尾宿では人足三七人・馬五二疋余が記入もれ、加賀前田氏の家臣には使用していない分も使用したように記入されていた。鴻巣宿では記入もれが一四三人・四四六疋余であった。これによって両宿の問屋は過料銭、助郷惣代は叱りとなった。この裁許書を作成した久保村と上中丸村の名主はそれぞれ五貫文の罰金を支払っている。
この裁許からは、助郷側が宿駅側に対して必要以上の人馬を集めたとして訴え、それに対して宿駅側でも反論したため決着がつかず、最終的に幕府役人の裁許になったことを知ることができる。過料銭はいずれも問屋が重かったことからもそのことを窺うことがてきる。

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