北本市史 通史編 近世

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近世

第3章 農村の変貌と支配の強化

第7節 荒川舟運と脇道

1 荒川の舟運と高尾河岸

舟運の発達と河岸
近世の河川交通は前代のそれと比較すると飛躍的に発達を遂げ、やがて物資輸送の一大動脈をなすようになった。それは徳川氏によって全国が統一され、江戸・大坂を中心とする経済圏が全国的規模に拡大したことによる。近世初期から河川交通を利用して運ばれたものに年貢米があり、その大部分は江戸・大坂・各城下へ搬出された。荷物の輸送には宿駅を利用する方法と、船で河川または海上を利用する方法とがあるが、米などの大量物資を運ぶ手段としては船が主に利用された。
その理由は、陸上運輸にくらべて運賃が低廉であると共に、一度に多量の荷物を積むことができ、さらに目的地またはその近くまで積み替えをしないで運べるところにあって、陸上交通の欠点を解決しているからである。
市域の西南を流れる荒川は、利根川などと共に関東を代表する河川の一つで、舟運が発達している。
河川交通も陸上交通同様に幕府や諸藩によって統制が加えられている。幕府は元和五年(一六一九)、大坂の諸川々の運輸を司る船(上荷舟・茶船)に極印を打ち、正保三年(一六四六)には大和川の浅瀬で活躍する劔先船に極印を打つなど、川船の掌握に務めている(『近世交通史料集八』)。他方、関東においては寛永十年(一六三三)、河川交通を統制する川船奉行が設置され、城米や年貢米の江戸搬入を主な任務としていた。
延宝六年(一六七八)正月、幕府は関東地方の河川で使用されている川船に極印打替えをするため三名の川船奉行を任命した。まず江戸市中を対象に川船の極印打替えを触れ、船数を報告せよと命じている。次いで二月には勘定奉行四名の連署によって、六郷川・荒川・中川・江戸川・鬼怒川・利根川・相模川およびこれらの支流で使用される船に極印を打替える旨を触れ、極印を打たなかった者は処罰すると述べている(『関東河川水運史の研究』)。これによって江戸湾内および関東地方にある川船を全て支配することになった。文中に「船極印打替候間」とあるから、川船の極印打ちは延宝六年以前にも実施されていたことが知られる。また「江戸江致出船極印をうけべし」と、川船を江戸迄まわして極印を打っているから、この対象とされた川船は、商業として利用されている船であった。幕府による極印打ちは、川船の掌握と共に年貢役銀徴収を目的とし、不足をきたした幕府財政への対応であった。ここに幕府の川船改め制度が成立し、貞享二年(一六八五)の川船改め、元禄二年(一六八九)の河岸改め地、同五年の廻村船改めを経て、十七世紀末には領主的運輸機構が確立したのである。

<< 前のページに戻る