北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第1節 豪農の成立

3 大地主と経営

表36 家別村内田畑所有面積

(『市史近世』No.154より作成)

次に下石戸上村の名主家の寛保三年(一七四三)における土地の所有状況等を、人別帳(近世№一五四)によって分析してみよう。
この村には九六戸の家数があり、この内九二戸が屋敷を持ち、土地を所有する本百姓であった。残り四戸は屋敷と土地を持たない水呑であった。村内の土地を集計すると、田畑合わせて七四町八反ニニ歩、これを九二戸で除すると一戸平均八反三畝となる。
これを、所有規模別の人数をみると表36のとおりである。自営農家の一町歩をめどにまとめると、一町歩以上がニ一戸でニニ・八パーセン卜、一町歩未満が七一戸(七六・二パーセント)である。この内一反以下は七戸であり、このほか四戸が無高である。いっぽう一町歩以上は一町歩代が一五戸、二町歩代が三戸、三町歩代が一戸、七町歩代が一戸で、最も多い土地の所有者は、下石戸上村の名主家のー〇町一反八畝三歩である。
村内における土地の集積状況を地主側からみると、名主家は村内の土地の一三・六パーセントを占めており、上位五戸で二五町九反六畝で三四・七パーセント、上位ー〇戸で三五町三畝で四六・八パーセントとなる。わずかー〇戸で村内の土地の約半分を所有していることになる。
これとは別に、一町歩以上の土地所有者はニ一戸で、この土地の合計は四八町二反五畝となり、村内の土地の六四・五パーセントとなる。すなわち、残り二六町五反五畝ニニ歩を七一戸で分け合っていたのである。一戸あたり約三反七畝の計算になる。
ところで、村内有力者の土地集積の過程を知りたいところであるが、残念ながらそれを裏付ける史料がないので明らかでない。ただし、前項の荒井村名主家の土地集積状況から推測して、この史料(寛保三年)の時点までにはかなりの土地の集積が行われていたと思われる。
このころの寛保元年(一七四一)、名主家は横見郡上砂村(比企郡吉見町)の又市から酒二五石の酒造株を醸造する権利を五両で譲り受けており(近世№ーー七)、農業収入の余剰金で新たに酒造業に乗り出していた。
ここで、人別帳に記載されているこの名主家について、家族構成などをみてみよう(近世№一五四)。
  本人 庄蔵 二二歳
  母親 つね 四五歳
  女房 さよ 二五歳 中山(ママ)村又左衛門の娘
  妹  とよ 一九歳
  妹  なか  九歳
  娘  ゑつ  ニ歳
以上であるが、この家族を支えていたのが一〇人の下男と五人の下女で、下男・下女の年齢や出身などは次のとおりである。
  下男 佐右衛門 二七歳 下石戸下村(市域)佐兵衛伜
  同  市兵衛  二五歳 同村四郎左衛門伜
  同  勘平   二三歳 同村甚五右衛門伜
  同  次兵衛  三三歳 同村文左衛門伜
  同  三助   二七歳 同村
  同  徳兵衛  二三歳 吉見領本沢村
              (比企郡吉見町)喜右衛門弟
  同  七兵衛  三〇歳 同村利右衛門聟
  同  権三   四三歳 同村彦右衛門甥
  同  喜兵衛  二九歳 吉見領五所村
              (比企郡吉見町)喜右衛門伜
  同  六兵衛  四四歳 忍領新宿村
              (吹上町)半右衛門伜
  下女 しけ(げ) 二五歳 滝馬室村
              (鴻巣市)□(虫損)兵衛妹
  同  さき   二六歳 高尾村(市域)庄右衛門娘
  同  はる   二三歳 同村弥兵衛娘
  同  そめ   一六歳 石戸宿(市域)新兵衛娘
  同  さつ   三二歳 同村三左衛門姉
この一五人の下男下女は、近隣村々ばかりでなく比企地方や忍方面からも雇っている。年齢は、下男の四四歳を筆頭に二三歳までで平均が三〇・四歳である。下女は三二歳から一六歳までで、平均は二四・四歳となる。いずれも働き盛りであった。
こうして、ニ歳の娘を除き総勢二〇人で、田畑の耕作をはじめ三町二反余の山林の手入れ、あるいは二年前から始めた酒造業などの幅広い経営にあたっていたことがわかる。そしてしだいに資産を蓄積し、天保六年(ー八三五)には、質屋渡世にも着手している。以上、下石戸上村の名主家を取り上げ江戸後期の大地主の姿の一端を窺ってみた。

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