北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第7節 荒川舟運と脇道

1 荒川の舟運と高尾河岸

高尾・荒井・石戸河岸
市域には三か所の河岸場があり、そのうち最も早く確認されるのは高尾河岸である。貞享二年(一六八五)の吉見領大囲堤をめぐる裁訴状に、葭の植立場を認めた場所の一つに「従高尾渡至新井新田三〇間」とあり(近世Naー四七)、高尾渡しの名が見られる。渡船場は河岸とかねているところが多い。先の元禄三年(一六九〇)の史料に見られる高尾河岸は、幕府領から年貢を積み出す河岸場であり、次の様に記されている。

(武蔵国荒川)
一高尾川河   川三拾三里程   運賃三分皂厘内四厘増
右同断(是ハ御定運賃ニ而植不申候ニ付、百   細井九左衛門
   姓方より増運賃三分四厘出し申候)     松平清三郎

これは、高尾河岸から浅草御蔵までは三三里余あって、運賃(公定の船賃)は三分一厘である。「内四厘増」とはこの度の公定船賃の改定によって四厘値上げされたことを示している。「右同断」とは幕府の定めた公定船賃では運んでもらえないので、そのほかに百姓が三分四厘の割り増しを払って、計六分五厘の船賃を支払っているということである。また改定以前の船賃は二分七厘だった。高尾河岸からは、牧野氏など周辺の旗本領の年貢米も積み出したであろう。
年貢米の積み出しについて、横見郡久保田村(吉見町)の元禄九年(一六九六)の村明細帳(県立文書館寄託新井侊雄家文書)には次のように記されている。御城米は霜月(十一月)から二月迄、御撰出米は四月迄に納める。積み出しは村から一里余の瀬戸井(荒井)河岸および高尾河岸からで、そこで船積みして船頭と年貢納入の責任者として村から付き添う上乗りが、江戸浅草の幕府御蔵へ納入する。船賃は三分一厘とあって、先の金額と同じである。
本来年貢米の輸送は、村から五里までは村の責任で送るが、五里以上の分は領主の手によって運ばれるのが原則であった。しかし、寛永年間ごろになると、各地の河岸の有力な船持ちや河岸問屋が輸送業者として現れ、そこで領主は、五里以上の輸送について、その料金を運賃米などとして村方に支払い、村の責任で江戸まで運ばせるようになった。
宝永三年(一七〇六)四月、横見郡大串村(吉見町)は年貢米を高尾河岸から輸送するが、それについて次のように詳しく述べている(近世№二〇二)。幕府領大串村から高尾河岸までは一里程で、そこから浅草御蔵まで三二~三里程ある。荒川の水が通常の時は金一分の運賃で一八~ー九俵を運べるが、渇水期の場合はー〇~ー二、三俵しか運べず、いずれの場合も料金は村側で負担している。幕府からは運賃としてー〇〇俵につき三分一厘の割で支払われる。という内容である。この金額は元禄三年以来変わっておらず、ー〇俵の運賃に換算すると三厘一毛となって、現実の二分の一以下の金額で実情に合わないものとなっていることが知られ、その不足分は村が負担したのである。
村々から河岸場に運ばれた廻米は、河岸問屋が請け負って浅草御蔵へ納めるのである。享保四年(一七ー九)十一月高尾河岸の船問屋二名は、久保田村の名主宛に御城米六〇俵の請負状を出している(近世№二〇三)。これは新金一分につき一七俵の割合で請け負っており、船積みから納入迄の一切を引き受けている。この史料から高尾河岸には二名の船問屋がおり、年貢米の輸送を請け負う運輸業者が出現していたことが知られる。船問屋らの請負いによって年貢米が納入されると、領主から村宛に請け取りが出される。文久二年(ー八六二)十一月旗本大河内金之丞の知行地の下上谷村に宛られた請け取りには米俵数一ニ〇俵、旗本大河内金之丞の収納米(年貢米)を、高尾河岸儀右衛門船にて運送した旨が明記されている(近世№ニ〇四)。
高尾河岸から船積みした年貢米をはじめとする総取扱い量を示す史料はないが、横見郡久保田村を中心とした年貢米の津出しについて、享保四年(一七ー九)から明和七年(一七七〇)までの調査がある(埼玉地方史第二〇号)。その成果によると、高尾河岸から積み出しされる地域は市野川の北部の横見郡ーーか村、および高尾村・下上谷村・埼玉郡菖蒲領八か村である。河岸問屋は享保期から安永期(一七一六~一七八一)二名、文化・文政期(ーハ〇四~ー八三〇)に一名増加し、明治期(一八五六~一九二ー)まで三名であったが、河岸内部での問屋株の移動も指摘されている。
一方、荒井河岸と石戸河岸であるが、先の元禄三年の関東河岸場調査には見られない。『新記』には、いずれも「渡津あり」と記すのみである。延享二年(一七四五)十二月、横見郡久保田村の年貢米輸送の際、七八二俵を船主三右衛門が請け負って荒井河岸から送り、翌三年十一月にも荒井河岸から二五〇俵を積み出している。このことから荒井河岸には年貢米の輸送を請け負う運輸業者がいたことを示しており、河岸場としての機能はこれ以前に求めることができよう。
明和八年(一七七ー)から安永四年(一七七五)にかけて幕府は関東諸河川の河岸調査を実施し、その結果、河岸問屋として認められた滝馬室村・荒川村の舟持ちが安永四年に提出した請書がある。

 差上申一札之事
高瀬船問屋株御運上願之儀、再応御吟味之上銘々左之通被仰渡候
ー滝馬室村牛五郎儀は永七百五拾文
ー荒井村惣左衛門儀は永五百文
  但、右六ケ(弐カ)岸ハ御代官宮村孫左衛門様江御運上相納可申候

(荒井侊雄家文書)


この主旨は、滝馬室村舟持ち牛五郎・荒井村舟持ち惣左衛門が、高瀬船にて運輸を業務とする問屋になろう願ったところ、再応吟味の結果、牛五郎は永七五〇文、惣左衛門は永五〇〇文の運上金を幕府に納めることで認められた請書である。かつ、運上金は安永四年から納め、船問屋仲間や舟持ち、名主・百姓らの慣習を守り、口銭・庭銭・船賃などは勝手に値上げしない。また、この二名の外は運送業をせず、新規に問屋業を始めることはしないと、両村の名主が奥書をしている。
この史料から牛五郎は御成河岸で、惣左衛門は荒井河岸でそれぞれ舟運に携わっていたが、やがて、船を所持する程になり、幕府の河岸調査のころにはそれぞれの河岸でかなり有力な運輸業者となっていたことが知られよう。それは、延享二年(一七四五)に荒井河岸から久保田村の年貢米を積み出した、舟持ち三右衛門の事例のように、周辺諸村の年貢米輸送および商品作物の輸送が盛んだったからであろう。こうした事実を幕府は認めざるを得ず、河岸調査において河岸問屋として認知したのである。

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