北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第7節 荒川舟運と脇道

1 荒川の舟運と高尾河岸

帰り荷
江戸では武蔵など関東五か国の河川にある河岸を奥川筋と呼び、これらから荷物を積んで江戸に来る船を奥川船と呼んでいる。河岸で荷物を積んで出航した船は、江戸で荷を下ろした後、奥川積問屋を廻って帰り荷を積込むのである。上尾の平方河岸は約一週間位いで往復したといわれているから、荒井・高尾の河岸から江戸往復はそれより一日くらい多い日程であろうか。江戸から積み込む帰り荷は塩・干鰯・灰などの肥料、木綿、乾物、瀬戸物などの小間物類が多かった。荒川筋を持ち場とする奥川積問屋は、文化八年(ーハーー)の「十組奥川積問屋場所附」によると、千住・荒川・川越問屋の持ち場で、近江屋が独占していた(『県史通史編四』P四五四)。
幕末ではあるが、慶応四年(明治元年、ー八六八)八月二十三日付で、江戸の商人福山宗之助から荒井村矢部平兵衛宛に「荷物送状之事」(矢部洋蔵家三〇二七)が届けられている。送られた荷物は柳こうりー、長持ー、葛籠二、明荷ー、箱類四、備後表包二、琉球包ー、障子屏風ー、コタツ櫓その外共一、薄縁ーの計一五個であり、運貨は銀立てとし、船賃一五〇夂は高尾河岸で支払い、口銭・判銭は共に運賃の二割増しの銀二ー夂(三〇父の誤りか)で江戸の近江屋へ支払ったと述べている。近江屋とは荒川の積問屋のことで、神田新橋にあった。荷物の輸送は福山氏が近江屋へ依頼し、高尾河岸の船問屋要七まで届けると述べている。同様に福山氏から矢部氏に宛てた送り状が、同月のもの三通、年不詳のものが二通残されている(矢部洋蔵家 三〇二八・三〇二九・三〇三〇・三〇三二・三〇三三〇)。

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