北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第8節 生活と文化

1 北本市域の寺院と神社

近世の寺院
近世の村には例外なくといってよいほどに寺院が存在した。仏教の普及というより、キリシタン禁制を理由とした宗門改めと寺請(てらうけ)制とによって、すべての人びとが寺院の檀家に組込むという政治的理由による。
近世の市域を形成していた一四か村には現在廃寺となったものを含めて、表39の各寺院をみることができる。
このように、市域には三一か寺が存在していた。これらのほかに、村民持ちや同じ村内の寺院持ちとして独立した仏堂が、『新記』によれば一六か所ほどみられた。
寺院の成立年代を『新記』によってみると深井の寿命院が「開山円俊文明年中示寂」とあるところから、一四五〇年前後と推定される。因(ちなみ)に現住職は三三世と伝える。安養院は岩槻太田氏の家臣長門守久宗の室の開基かと記している。岩槻太田氏の落城以降とすれば天正末の、一五九〇年ごろということになる。他の寺院は成立の事情が明らかでないが、幕藩体制下の支配機構整備とともに近世初期、一六五〇年ごろまでには成立したものと思われる。
宗派についてみると、浄土宗と時宗がそれぞれー寺で、他は新義真言宗と天台宗によって占められる。浄土宗は鴻巣の勝願寺の末寺である東間の勝林寺、時宗は川越東明寺末の石戸宿東光寺である。新義真言宗は寿命院とその末寺・門徒寺、および馬室常勝寺の末寺で市域の東側に偏在する。天台宗は川田谷泉福寺の末寺で西側に偏在する。例外として桶川市坂田の天台宗蓮華院の門徒寺である雲性寺が中丸村にあった。
『県史通史編三』P七三三によれば埼玉県は真言王国といわれ、『新記』に記載されている県域の寺院三七九一か寺のなかで過半の一九二三か寺が真言宗寺院である。近世の真言宗寺院は大別して古義真言宗と新義真言宗に分けられる。県域では新義真言宗が大勢を占めている。古義真言宗はいわゆる真言宗の開祖の空海の教えを信奉するグループで、高野山に従来より伝えられてきた説を奉ずる一派で高野山金剛峰寺が総本山である。これに対して新義真言宗は平安時代後期の覚鑁(かくばん)(ー〇九五~ーー四三)を宗祖とする一派で和歌山県根来山大伝法院を本山とする。天正十三年(一五八五)秀吉により焼打ちにされたが、のち専誉(せんよ)を中心とするグループと、玄宥(げんゆう)を中心とするグループが奈良の豊山神楽院長谷寺と京都東山の智積院で再興した。前者を新義真言宗豊山派(ぶざんは)といい、後者を新義真言宗智山派と呼んでいる。県域では智山派に属する寺院が非常に多く、深井の寿命院も智山派である。
表39 近世における市域の寺院・宗派・支配関係
村名 寺院名 宗派 本寺又は支配関係 
東間村 〇勝林寺 浄土宗 鴻巣宿勝願寺末 
 宝光寺 天台宗 川田谷村泉福寺末浅間社別当 
深井村 〇寿命院 新義真言宗 京都智積院末 
 東円寺 同上 寿命院門徒 
 橋本寺 同上 同 上 
宮内村  常福寺 同上 同 上 
 大乗院 当山修験 小松原瀰本坊配下 
本宿村 〇多冏寺 新義真言宗 滝馬室常勝寺末 
古市場村  如意寺 同上 同 上 
 大善院 本山修験 下谷大行院配下、稲荷氷川社別当 
 常楽寺 不詳 
中丸村  遍照寺 新義真言宗 寿命院門徒 
〇慈眼寺 同上 同 上、氷川社別当 
〇安養院 同上 同 末 
 雲性寺 天台宗 坂田村蓮華院門徒 
花野木村  高蔵寺 新義真言宗 寿命院門徒 
別所村 〇無量寿院 同上 同 末 
 法乗坊 同上 常勝寺末 
石戸宿村 〇放光寺 天台宗 泉福寺末 
〇東光寺 時宗 川越町東明寺末 
下石戸上村 〇真福寺 天台宗 泉福寺末 
下石戸下村  修福寺 同上 同 上 
 大蔵寺 同上 同 上 
高尾村  泉蔵院 新義真言宗 常勝寺末 
 玉蔵院 本山修験 大行院配下 
 泉龍寺 当山修験 京都醍醐三宝院配下、氷川社別当 
荒井村  双徳寺 天台宗 泉福寺末 
 宝蔵寺 同上 同 上 
 正明院 当山修験 不詳 
北袋
 地蔵院 
新義真言宗 常勝寺末 
下石戸上村  楊門院 本山修験 大行院配下 
なお、市域には修験寺院が六か寺ほど存在していたことが表39から窺(うかが)えるが、ここで修験寺院について触れておきたい。修験は密教に基き、神仏のいずれにも仕える。天台山伏の京都聖護院を本所とする本山派修験と真言山伏の京都三宝院を本所とする当山派修験がある。『県史通史編三』P七五七によれば修験は戦国武将に珍重され、関東地方では後北条時代に隆盛をきわめたが、江戸時代初期には徳川家康により統制が加えられた。それまで吉野山、熊野、日光、立山、伯耆大山、羽黒山、彦山などの諸霊山をよりどころにして全国各地を遊行することが多かった修験者を、地域社会に定着させ(里修験)、本山派か当山派のいずれかに所属させる政策がとられた。この結果修験道は一時衰退したが、次第に地域社会にとけこみ中期以降になると村むらには修験寺院が成立して、神仏習合の加持祈祷に専念した。すなわち修験者は村むらで、日待・月待・荒神・庚神などの祭の導師、加持祈祷、調伏、つきものとおとし、符呪やまじないなどの呪術宗教的な活動を行った。
仏教寺院との関係をみると、戦国時代は死者の成仏の回向は菩提寺の僧侶がやり、葬儀の日時や場所の浄・不浄の清めや忌明を祈るのが修験の役目というふうに分離されていたらしく、この傾向は江戸時代になっても地域により濃淡はあっても継承されていたようである。
表40 近世における市域の堂宇
宮内村 不動堂 村民持 
十王堂 村民持 
弥吃堂 常福寺持 
深井村 薬師堂 
本宿村 観音堂 多聞寺持 
山中村 八幡社 村民持 
不動堂 日蓮宗教会場 
祖師堂 
古市場村 太子堂 如意寺持 
中丸村 薬師堂 村民持 
太子堂  〃 
観音堂  〃 
別所村 地裁堂 無毋寿院持 
石戸宿村 念仏堂 村民持 
薬師堂  〃 
薬師堂  〃 
阿弥陀堂 東光寺持 
下石戸上村 阿弥陀堂 村民持 
勝林地蔵堂 楊門院持 
荒井村 観音堂 双徳寺に附属していた堂 
地蔵堂 村民持 
高尾村 阿弥陀堂 泉蔵院持(?) 
観音堂 高尾山観音院妙音寺とも云 
阿観堂 現在は真福寺持 
市域の近隣では鴻巣市下谷の大行院が本山派修験で「往古は上足立三十三郷」を支配して年行事職となり、同市原馬室の瀧本院が当山派修験で「近郷の触頭職を勤」め、修験寺院の先達として中心的な役割を果たしていた。高尾の玉蔵院、下石戸上の楊門院、古市場の大善院が大行院の配下で、宮内の大乗院が瀧本院の、髙尾の泉龍院が京都三宝院の配下であった。
修験道による両部(神仏)習合は、別当寺という神社に付属して置かれた寺院を生ぜしめた。市域では東間の浅間社の別当寺として宝光寺、先にあげた古市場の大善院が修験寺兼稲荷氷川社の別当寺であり、高尾の泉龍寺が修験寺兼氷川社の別当寺であった。これら修験寺や別当寺は、明治初年の廃仏毀釈運動ですべて廃寺となった。

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