北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第8節 生活と文化

1 北本市域の寺院と神社

朱印状
深井の寿命院には、家康の発給した朱印状をはじめとして、全部でーー通の朱印状がある。家康の朱院状は写真25の通りで、天正十九年(一五九一)のものである。「寄進 寿命院 武蔵国足立郡鴻巣郷之内拾石の事 右寄附せしめおわんぬ。殊に寺中に不入たるべき者なり。よって件のごとし。天正十九年辛卯十一月日」という内容である。天正十九年という年は家康の関東入国の翌年に当る。家康はこのように寺領を寄進し、「寺中不入たるべきものなり」と寺中を除地=免税地として保護し、寺の幕府への従属性を促し、寺院を支配機構の中に組みこんでいった。

写真25 徳川家康朱印状天正19年

(深井 寿命院蔵)

幕府をはじめ大名・旗本は領内にある寺社の宗教活動を保護するために、領地の寄進や堂舎の建立、さらには金品、米穀の寄進など様々な手段で援助を与えていた。その中でもっとも恒久的な意義をもっていたのが領地の寄進であった。朱印状とは文書にその効力を証するため据えられ、あるいは押される花押(書き判)や印章のうち、朱を用いて押捺された印影をもつ文書のことである。朱印状は戦国武将も用いたが、江戸時代には将軍が重要文書に朱印を用いた。寺社の場合各地の有力な寺社に対し寄進という形をとって領地が与えられたが、それらはすべて朱印状の交付によって行われた。これを受けて地主として所持する土地が朱印地である。この朱印地自体はー寺当りー〇~ー五石程度と小規模のものが多かったが、何分にもこの江戸時代に将軍から直々に寄進・安堵されたことから、これらの寺社の権威は高く、御朱印寺、御朱印地などと呼ばれ、その格式は非常に高かった。
寿命院には、この家康の朱印状のほかー〇通の朱印状が存在している。本来、朱印状は最初に受けた時点から将軍の代替わりごとに新しい朱印状が交付されたが、これらは継目安堵と呼ばれている。
しかし、歴代の将軍中在職期間の短かった六代目家宣、七代目家継、一五代目慶喜はこの継目安堵の朱印状を発給していないので、家康から朱印状を受けた寺でも実際に交付されたのはー二通である。なお、県下における朱印寺社は、寺院三六四、神社八四、合計四四八社で時代別、宗派別朱印寺社数は表41の通りである(『県史通史編三』P七九三)。
表41 時代別・宗派別朱印寺社数
宗派
時期
天台宗 真言宗 浄土宗 時宗 曹洞宗 臨済宗 日連宗 修験寺院計 神社 合計 
天正19年 30 033 94 18 112 
慶長期 000016 19 
元和6年 00000000
寛永19年 0000010 
慶安元年 35 015 67 74 
慶安2年 13 65 12 47 13 160 47 207 
慶安年中 0000015 
貞享2年 00000000
不 明 00000
合 計 24 145 37 110 25 11 364 84 448 

(『県史通史編3』P793より引用)


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