北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第8節 生活と文化

1 北本市域の寺院と神社

本末卞制度
江戸幕府は政治的支配権の確立強化と平行して、寺院に対してもたびたび法度を布達し、寺院を幕藩体勢の支配機構の中に組みこんでいった。幕府の法令として名高い「武家諸法度」や「禁中並公家諸法度」と同様、寺院統制の諸法令は総称して「寺院諸法度」とか「諸宗諸寺諸法度」と呼ばれ、寺院に対してその守るべきことがらが規定されている。ところでわが国の仏教・大寺院は古くから朝廷と結びつき、あるいは公家・武家の庇護をうけ、かれらと並んで権勢を振ってきたが、江戸時代になると幕府は元和元年(一六一五)に諸宗諸本山法度を定め、寛永九年(一六三二)には諸宗諸本山に末寺の書き上げを命じ、これに基いて翌年「寛永末寺帳」を作成し諸宗諸本山を通して寺院統制を徹底したが、諸宗諸本山は本山で、諸宗派ごとに全国的に本寺末寺制を確立した。修験も同様である。
市域の寺院の本末関係を示すと図18の通りである。

図18 本末関係図

寿命院には、京都の智積院運敞(うんしょう)の発した直末(じきまつ)許可状がある。直末許可とは関東の新義真言宗の在地の本寺(田舎本寺)が、自己の法流の本寺を求めて京都や奈良の法流本寺(上方本寺)の直末寺となることである。
運敞の直末許可状(原漢文)をみると、「武州鴻巣在の寿命院は、関東の講学の寺院として教風の地となっている。古くから中性の法(智積院の法流と同じ)の流れを汲んでいたが、本末の由緒を失って定かでない。そこで現住職の秀仙が当智積院の末寺になることを請うた。ところでこのたび江戸の四箇寺で、諸寺の本末関係を糺すことがあったが、寿命院は他寺からの異論もない旨の副状が四箇寺より届いたので、異議なく末寺として許諾した。よって末永く本末の法式を守られたい」と延宝三年(ニハ七五)に許可状を寿命院に与えている。
ここで本末関係を紅した四箇寺とは江戸の真福寺・円福寺・弥勒寺・知足院のことである。寛永十二年(一六三五)に幕府の職制の一つとして寺社行政を担当する寺社奉行が設置されたが、この寺社奉行から下達される命令を受領して配下の寺院に触れる機関が触頭である。関東の新義真言宗教団の行政を任せられていた触頭が江戸の四箇寺で、幕府権力の支えのもとに本末関係を正し、転住・隠居・後住について管理し、宗門内の訴願を裁くなどの教団行政の実質的権限を握っていた。運敞が本末許可状を与えたことになっているが、四箇寺が決定し智積院が形式的に追認したものといえよう。触頭四箇寺に対して上方本寺は教学・法流上の支配権を有するだけとなった。
ところで直末寺となった田舎本寺(いなかほんじ)には上方本寺の法流相承を示す証文としての印信すなわち「伝法許可灌頂印信」が与えられた。寿命院には同じく運敞から直末許可状の発せられた翌年の延宝四年の印信が伝えられている。これによると「(前略)爰に法印秀仙三密の奥旨を深信し、久しく両部(大悲胎蔵と金剛秘密のこと)大法を学び、今機縁相催し性本分を示す所により伝法灌頂密印を授けるなり(後略)」(原漢文)とし、智積院の法流である中性院流を伝授された。こうして田舎本寺は、在地での末寺を統制しさらに法流を伝授して弟子の養成に当った。なお、末寺と門徒の違いに触れておくと、末寺は自分の寺で単独で葬儀が執行できるのに対し、門徒はそれができないとか、上方本寺の法流を相承できないなどの違いがあった。

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