北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第2節 商品生産の展開

1 市域の農業生産

市域の立地を見ると、西は荒川とその流域の低地があり、東は元荒川の支流赤堀川が流れ低地になっている。中央部は大宮台地に位置しており、海抜最高地は西部で、およそ三〇メートルである。
こうした地形のため、市域では畑作が中心であった。今、江戸時代における土地利用形態を見たいと思うが、市域全体にわたる適当な史料、すなわち、一時期市域すべての村々の田畑の面積を表した史料はなかなか見当たらない。そこで、慶安二~三年(一六四九~五〇)に成立した『武蔵田園簿』により、市域の土地利用形態の一端を窺ってみる。表記は石高だが、これもやむを得ない。その後の開発による田畑面積は、これまた、適当なものがないので、『天保郷帳』(天保五年〈ー八三四〉に成立)の数字を参考までに掲げておく。

表37 田・畑の村高

(『天保郷帳』他より作成)

まず、『武蔵田園簿』を見ると、市域の村高合計は三一七一石となっている。そのうち田高が七二〇石、畑高がニ四五一石で、その比率は田高二二・七パーセント、畑高が七七・三パーセントである。ことに石戸町(石戸宿村)・本鴻巣村(北本宿村)・東間新田(東間村)の三村は田高がゼロである。比較的田高が多い村は、下石戸村(下石戸村上分、下石戸村下分)と宮内村の二村であるが、田高が畑高を凌駕(りょうが)する村は、小村ながら別所村・花ノ木村の二村である。
このように江戸時代前期の土地利用は、数字のうえからも畑作中心地域であることが明らかである。この時期以降開発によって村高は増加したが、天保期(ー八三〇~ーハ四四)には三三六六石となっており、慶安期(一六四八~一六五二)に比較して一九三石(六・一パーセント)の増加で大きな変化はない。したがって、土地利用についても江戸時代全般を通じて大きな変化はなかったと考えられる。
次に、江戸時代における農業生産物について、どのようであったか見てみたいが、適当な史料が見い出せない。僅かに年貢皆済目録に米・麦のほか綿(木綿)・大豆・荏(えごま)などが見られる程度で、これも市域全域にはわたっていない。
そこで、明治維新後成立の『郡村誌』をみると、市域全域について記載されている。これにより江戸後期のおおまかな傾向を知ることはできよう。
表38 穀類他生産高
 米 石 大麦 石 小麦 石 甘藷 貫 
石戸宿 21.9 517.5 207 24700 
下石戸上 151 337 345 210駄 
下石戸下 137 372 117 38000 
荒井 80 585 
高尾 116 1373 223 
古市場 86 105 32 6300 
別所 168 100 20 6300 
花ノ木 40 50 15 150駄 
中丸 181 1200 500 3000 駄 
山中 30 200 250駄 
本宿 190 22 4212 
宮内 310 240 64 20万斤 
東間 350 48 11万6000斤 
深井 133 565 121 9750 

(『武蔵国郡村誌』より作成)


まず、農業の主生産物米・麦については、総生産量は米が一五八二石、大麦が六一八四石、小麦が一七二〇石と麦類の生産がたいへん多い。このほか、大豆がー八七六石、甘薯(さつま芋)が二三万八〇〇〇貫とくに甘薯の生産量は顕著である。これなど自家消費というよりも明らかに商品生産であろう。こうした観点からみると、江戸時代から引き続いているものがかなり考えられる。例えば、鶏卵、藍葉、芋(長芋か)、栗、胡麻、人参、蕎麦(そば)、茶、蘿蔔(らふく)(大根)、胡蘿蔔(こらふく)(えびす大根)、里芋、菜種、木綿、繭などである。なかには紅花のように幕末にはすでに減少の傾向はみられていたが維新以後欧米からの輸入品に押されてほとんど生産しなくなったものもあった。しかしながら、江戸後期、貨幣経済が発達し、商品生産が活発に行われたことは類推することが出来るであろう。

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