北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第8節 生活と文化

4 北本の算額

本宿二丁目の天神社に、明治二十四年に奉納された算額がある。算額は和算家が師匠の提示した問題や自己の発見した問題と解法を額に描いて神社仏閣に奉納した一種の絵馬である。和算家が問題発見や解法の喜びを表明し、学力を公示し、神仏に感謝するとともに問題や解法を広く世に伝えるという意図もあった。遣題継承である。
算額を奉納するという風習は十七世紀の半ばに求めることができるが、本県における最古の額は所沢市山口の金乗院にある安永九年(一七八〇)の奉納である。算額は算学研究の成果であり、江戸時代の数学の所産であるが、明治になっても引き継がれ、明治の中期になっても各地に算学研究の社中が存在し、それによって奉納された額も少なくない。『埼玉の算額』(昭和四十四年、大谷恒蔵・野口泰助)によって一〇年おき年代別分布を示すと表48の通りである。この表に位置づけてみると、天神社の額は県下の算学研究の終末期に属する。
表48 10年おき年代別分
年  代  現存 記録 合計 
1780—1790 安永9一寛政2 
1791—1800 寛政3 —寛政12 
1801—1810 享和1一文化7 
1811—1820 文化8ー文政3 11 
1821—1830 文政4一天保1 
1831—1840 天保2一天保11 
1841—1850 天保12一嘉永3 
1851—1860 嘉永4ー万延1 16 
1861—1870 文久1一明治3 
1871—1880 明治4 一明治13 20 21 
1881—1890 明治14 一明治23 
1891—1900 明治24一明治33 
1901—1910 明治34一明治43 
1911-1920 明治44 一大正9 
1921—1930 大正1—昭和5 
1931-1940 昭和6—昭和15 
1941—1950 昭和16一昭和25 
1951—1960 昭和26—昭和35 
1961— 昭和36— 
合  計  77 37 114 

(『埼玉の算額』より作成)


写真31 算額

本宿

ところで天神社の額は、横ー七八、縦八八センチメートルという大きなもので、厚さー・ニセンチメートルの杉の柾目板にーニ問記されている。ちなみに二問を取り上げよう。当所(本宿)の住人清水正二の問題と解答を取り上げると、問題は「今、図の如く大円二個中円五個あり。交わるすき間に小円四個を容れる。大半の(半)径を二寸八分と云わば、小円の(半)径は幾何(いかん)ぞ」というもので、「答え小円の径は五分八厘」「術に日く五分平方開を置き、内に五分を減じ大径を余乗し、小円の径を得て問に合う」清水良蔵の問題は「今、図の如く方内の斜を隔てて甲円壱個乙円四個を容れる有り。甲円の径を一寸八分とすれば乙円の径幾何と問う」「答え乙円の径ー寸二分四厘」「術に日く弐分平方開を置き壱個を加え以(もっ)て甲の径を除し乙の径を得れば問いに合う」といったような具合である。参考までに現代の数学で解くと囲み記事のようになる。清水正二の問題は中学三年のレベルとして、清水良蔵の問題は、三角函数を援用しなければ解けないかなり高度のものといえよう。
算学の教授は大体において個人教授が普通で、解法を説明するのでなく、問題を与えて自力で解かせた。一つの問題が解ければ次の問題を与えてまた自力で解かせた。これを重ねながら程度を高めるものであった。学力が向上すると自ら問題を考案したりしてその解法も考え、それが完成すると、これを算額として神社仏閣に奉納した。

図19 算額の一部

図20 算額の一部


図21 算額の解答

図22 算額の解答

天神社の算額の解答者等の生年を示すと、本宿の在住者は八人で清水良蔵・小川留吉・岡野関太郎・桜井幸作の四人が明治四年、清水織之助は明治五年、岡野新三郎・林重作・野口栄三郎の三人が明治八年、北中丸の在住者は二人で加藤由五郎が慶応元年、井上宗吉明治七年、それに小針領家(桶川市)の平井伊之助(生年不詳)である。解答者の明治二十四年の平均年齢はー九歳強で、発起人の清水和三郎は弘化元年(一ハ四四)の生れで、明治二十四年には四七歳で解答者たちとは親子ー世代の隔りがある。
この算額を準納した人々が関流算法であることは、額に明記されているが、誰を師匠としていつから社中(塾)を結成し、算学の研究に精進するようになったかは不詳である。一体に、江戸時代における本県の算学教育は、上州算学との関連において発展した県北地方と、江戸算学の影響を受けて発達した県南地方に大別されるが(『県教育史巻一』)、市域の算学は関流であり、上州算学の系譜である。
ところで、たいへん注目すべきものに、桶川市小針領家の氷川諏訪神社に、明治三十年二月に奉納された「奉献関流算法」の算額がある。これには
  発起者 北足立郡中丸村大字北本宿  清水和三郎
  願 主 北足立郡加納村大字小針領家 平井伊之吉
  解答者 北足立郡石戸村大字下石戸  野口喜三郎
      北足立郡中丸村大字北本宿  清水元之助
同             宮倉澤太郎
      南埼玉郡平野村大字高虫   小嶋仁右衛門
の名前が載っている。この年、清水和三郎は五三歳で、元之助は和三郎の長男でー九歳、喜三郎は一七歳、二問解いている澤太郎、仁右衛門は年齢不詳である。
氷川諏訪神社の解答者は四人中三人が市域の人であり、下石戸の野口喜三郎が含まれていること、さらには天神社の額には載っていない宮倉澤太郎が一人で二題解いていることをみると、市域の算学研究家はある程度の層の厚さがあったと推察できる。なお氷川諏訪神社の願主平井伊之吉が、天神社の額では解答者の一員であることからみて、清水和三郎が世話人的立場で主宰していたであろう北本宿村の算学研究グループには、他村からの同好者も結構いたのではないかと想像される。
市内の岡野とく家には弘化三年(一八四六)下中丸村の角田国三口(不明)が筆写した嶋邑文吉益輝門人の著わした『算法稽古記』がある(近世№ニーニ)。この内容をー、二紹介すると、「積り四百五拾坪有是ヲ三角として壱方西何程卜問」(面積が四百五拾坪ある。これを正三角形とすると一辺の長さは何程か)「如図平円の径壱尺矢壱寸有、弦何程問」(図23のように直径が社会、職業生活を営む上必要な実用的内容とは異なり、算学塾で使用された初級の教科書と思われる。江戸期の上・下中丸村在住者で算額に名を連ねた人物は出ていないが、弘化年間(一八四四~四ハ)に下中丸村の住人角田国三口が、すでにして算学の初級本を筆写していたということは研究の機運があったものと見なされよう。
なお、北本市の近隣では、先に触れた小針領家の氷川諏訪神社以外に、明治二十八年に鴻巣市三ッ木の三ッ木神社に、文化三年(一八〇六)に桶川市稲荷神社に合祀された不動堂、明治四十三年に同市加納の氷川天神社の三例の算額を見ることができるが、これらに市域の人物が関係したあとは認められない。
算学研究は、西洋の数学が学校で採用されるようになってからも、民間でしばらく命脈を保っていたが、大正時代中期をもって閉幕した。

図23 算額の解答

写真32 算法稽古記

(岡野とく家蔵)

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