北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第8節 生活と文化

5 北本の俳諧

芭蕉句碑
  原中や物にもっかず啼雲雀

写真33 芭蕉句碑

石戸宿

見渡す限りの広い春の野原からひばりが高く高く舞い上がり、一物もない無窮の大空の中で、すべてを離れ切ってただ無心にさえずっている。緑に満ちたのどかな情景を詠った句である。世俗、名利を超越して、独り俳諧の道を求める芭蕉の境地をひばりに比しているのであろうか。これは、『続虚栗(みなしぐり)』(貞享四年 一六八七)にある句であるが、石戸連の俳人たちは、自分たちを芭蕉に重ね、己が石戸宿方面の麦畑地帯に最も似つかわしい句として選んだものであろう。この句碑は、石戸宿四丁目地内に、嘉永四年(ー八五ー)冬に建立されたものであるが、石戸連として一五名の名前が記されている。石戸に隣接する川田谷村(桶川市)には、与野の俳諧師鈴木荘丹(一七三一~ー八一五)と子弟関係にあった高柳菜英という俳諧宗匠がおり、この地域は俳諧の気運が高かったところである。ちなみに、菜英の手になるらしい版本といわれている(『埼玉史談第三八巻』第二号)『桃之筵』には菜英らとならんで後出の中丸の嵐十・如碇、下石戸のタ江の句が載っている。菜英は桶川・上尾俳壇の中心的人物として活躍した。なお桶川宿には寛政・文化年間(一七八九~ー八一八)にその名をなした府川士風がいた。士風は桶川宿本陣八代目の主で、若年のころ鴻巣宿の横田柳几(りゅうき)に学んでいる。
ところで碑陰に刻まれている石戸連の句は次の通りである。

はる風やほこりたつ野を人の行  鶯 遊
増す音の曽良へ響けや秋の水   如 往
その奥を見たき欲あり花の山   月 弓
芦の花とぶや小春の山のうへ   秋 呂
蕣の根に咲き戻る名残かな    雙 枝
散る音をたてぬ流れや花のかげ  秋 水
程の瀬もかくしけり秋の水    舜 月
家遠き畑にも群る乙鳥かな    氷 壺
通ふ日にほのぼの白し門の楳   不二丸
鶯や松葉こぼるる雪のうへ    耕 玉
この頃の夜の鎮りやほととぎす  保 内
水鳥の楽々波たてる旭かな    松 月
月ながら眼立つ柳の蛍かな    住 松
水の増す花の咲くなり初さくら  有 水
田に水の自然に出来て初蛙 歩 月

芭蕉没後、芭蕉を慕う者たちから供養のためにいわゆる芭蕉塚が各地に建立されるようになり、年々の時雨忌(芭蕉忌)は俳人の年中行事として重視された。年を経るにつれて芭蕉は俳聖として偶像化されてくる。そして俳諧の盛行とともに芭蕉の句を刻んだいわゆる芭蕉句碑が同好の社中たちによって建立されるようになった。
ところで市域にはもう一基芭蕉句碑がある。荒井地内にあるもので

いろいろの事おもひ出す桜かな

である。原句は「さまざまの事おもひ出す桜かな」(『笈の小文』)で元禄元年(一六八八)の作。芭蕉が以前寛文年間(一六六一~七三)に藤堂良精の子良忠(俳号蝉吟)の近習として任官していたころの懐かしい思い出を桜に託して詠んだ句である。この句は文化十五年(ー八一八)春に井岷江によって建立された。碑陰にはクマカヤ(熊谷)呂律、正能(騎西町)宇禄、騎西素言、小林(菖蒲町)引蝶、カウノス(鴻巣市)四淸、江戸恭阿、京(京都)酒仏、カウノス和潤、カウノス梅戸、可水らの句が刻まれている。地名を冠していないのは可水一人だけであり、あるいはこの可水が地元の俳人と考えられなくもない。しかし、この芭蕉句碑の所有者岡野とく家には俳句関連の史料はなく、一説にこの碑は荒井の花見堂にあったとのことであり、市域との結びつきについては今後の研究がまたれるところである。
ちなみに、近隣における芭蕉句碑は次の通りである。

鶯の笠おとしたる椿かな   (上尾市領家 天保五年)
けふばかり人も年よれ初時雨 (鴻巣市本町 天明七年)
蝶の飛ばかり野中の日かげかな(鴻巣市箕田 安永七年)

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