北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第8節 生活と文化

5 北本の俳諧

布袋庵社中
これより先鴻巣宿には、当時江戸のみならず全国的に名の知れ渡った布袋庵横田柳几がいた。柳几は横田三九郎盛英といい、享保元年(一七ニハ)鴻巣宿の造り酒屋の生まれ、江戸にも多数の家作を持つ資産家であった。はじめは伊勢の中川喜右衛門、のちには幕府直参の武士佐久間三郎左衛門長利(俳号柳居)の門人となった。柳几は交遊も広く旅を好みその足跡はほぼ全国に及んだといわれている。句作の外に俳書、紀行文も著わしたが、その多くは火災で焼失したという。その子息柳也も俳諧を好み『柳几俳句集』をまとめている。先に紹介した「けふばかり人も年よれ初時雨」は、芭蕉千句塚之碑にある句である。この碑は宝暦十三年(一七六三)芭蕉七〇年忌に二〇余名の俳人が集まり、一日一〇〇〇句の早吟をしてー〇〇〇部をもって供養としたものを、天明七年(一七八七)千句を壷に入れ塚を築いて「芭蕉千句塚之碑」とし、勝願寺の境内に建立したものである。この碑陰に「……横田柳几及其門人五十余輩……」とあるところから門人は五〇人を超える盛況であったことがうかがえるが、残念ながら一人一人の名前が刻んでないので、市域の門人の存在を実証できない。
柳几は明和九年(一七七二)「古河わたり集」(『県史資料編三』P八二七』)を出している。この中に、現市域からは、古市場の瓦光の句

谷川を籠田にしたるつつじ哉

が載っている。瓦光は布袋庵社中の一員である。
柳几はさらに安永六年(一七七八)五月に句集(題不詳)を出したが、この中には荒井の三人の名が見えている。
「雨風に越(こし)へ旅出を送る」と題して発句した。

道すがら分ける清水や旅硯 荒井 雁秋
卯の白の雪や越路へ笠二蓋 同  其友
夏旅に恵方の越へ曽人連哉 同  柴舟

柳几の没後を引き継いだのは、上谷村(鴻巣市上谷)の医師松村正敏=松蘿堂篁雨(一七三三~一八〇九)であったらしい。篁雨は上谷に生まれ鴻巣ですごし、晩年を上谷で送ったが、柳几とはともに九州に旅するほどの親交があった(勝願寺住職故藤田寛海「松蘿堂重雨の俳系」)。この篁雨一周忌追悼句集に『盆かはらけ』(文化七年)がある。生前の篁雨の句に近隣の門人の追悼句を付したものである。これには栢間村・小林村(菖蒲町)、鴻巣宿、桶川宿、川田谷村などの門人に混じって

様々(さまざま)や旭にもろき露の玉 中丸 如 碇
言の葉も昔ながらの一葉かな     同  嵐 十
ゆく雲や秋のゆふべの物あわれ    石戸 タ 江

の句が載っている。
寛政四年(一七九二)の「壬子卯月日記」によると、タ江は下石戸の吉田専助であったことが知られる。同書には同村の吉田佐十郎俳号太素の名も見える。

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