北本市史 通史編 近世

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第3章 農村の変貌と支配の強化

第2節 商品生産の展開

2 商品作物の生産

硝石の生産
硝石とその製法
硝石は黒色火薬の主成分である硝酸力リュウムの通称であり、焰(塩)硝ともいう。チリ硝石で知られる硝石は硝酸ナトリュウムであり、ともに硝酸のアルカリ金属塩であるから化学的な性質はよく似ている。また、硝石は窒素を含む有機化合物が地中でバクテリアの作用で分解酸化したもので、いずれも十九世紀までは硝酸の原料とされ、純粋なものは無色の結晶で水によく溶け、アルコールやエーテルには溶けないという性質がある。そして強力な酸化剤であるところから黒色火薬の原料となる。
江戸時代、五箇山地方(富山県)で慶長十年(一六〇五)の塩硝に関する資料が残されており、そこには塩硝作りの製法が伝えられていた。そこで、まず本庄清志が「技術と民俗上巻」(『日本民俗文化大系一四』小学館)に紹介したこの地方の塩硝作りを紹介してみよう。
ここでの塩硝の生産工程は、まず塩硝土を作る。塩硝土作りは、六月ごろになると、床下に二間四方の穴を掘り、その中に稗(ひえ)殻を敷き、上に水分の少ない良質の耕作土と蚕糞を混ぜ合わせたものを入れ、さらにソバガラやヨモギ・麻の葉を干したり蒸したりしたものを小さく切って敷き詰め、さらにそのうえに蚕糞の混じった土をかぶせる。ときには相当量の小便を混ぜることもあった。そして、夏と秋には、土を掘り起こし、新しい草や蚕糞を追加する。
五年目ころになると、これらが腐って白い黴状(かびじょう)になる。この土を桧作りの桶に入れて水をかける。一昼夜かけて濾過した水を一番水といって、これを釜で煮詰め、紺屋灰にかけて濾過し、もう一度煮詰めてから木綿で濾す。濾して残ったものを「灰汁煮塩硝」という。一石(約一八〇リットル)の一番水から一五〇匁(約五六三グラム)の灰汁塩硝ができた。
次に灰汁塩硝を水で薄め、混ざっているごみを取り除き、溜桶の中に三日おくと白飴のような五寸釘状の塩硝ができる。これを七回清水に晒(さら)すと氷のような「中煮塩硝」ができる。
中煮塩硝をさらに煮込み、七枚重ねの木綿で濾しごみを取り除き、七日間澄ませてつらら状に精製したものを「上煮塩硝」とよび、塩硝のできあがりである。
この塩硝の生産には、多くの労働力が必要であった。嘉永六年(一八五三)、五箇山地方の一軒の農家が年間約三〇斤(一八キログラム)を生産するのに薪とり人足三〇人、灰汁煮煎じ人足三〇人、その他三〇人、合計九〇人の人足が使われたという。塩硝の精製のために、煮るときは昼夜休まず燃やし続けるので、大量のまきが必要であった。
荒井村における硝石製造
元治元年(一八六四)三月、旗本牧野鉄次郎知行所荒井村の名主平兵衛は、御地頭所御用改格の山本大三郎から、御本家牧野讃岐守様が武備(ぶび)(鉄砲の火薬を蓄えることか)として村内で硝石を製造するよう達しがあり、村人と相談してこれを引き受けた。
この製造にあたっては、硝石製造職人の太郎吉を頭として、清蔵そのほか三人が御地頭所から派遣され、また、この製造にかかる費用はすべて御地頭所で負担することになった。作業場としては、村内次郎兵衛宅の空き家を使うことになった。そして最初に製造した硝石のうち、一割を上納し、そのうちの六分を武備にあて、残りの四分は荒井村に下げ渡すことにした。その後はその時の相場で製造職人から買い上げることになった。
製造方法は、村内の家々の床下の土から硝石をとる方法である。まず、家々の床下の土を一~二寸程掻(か)き出し、跡へは新しい土を入れて置く。そして、床下の土は一八~九町(およそ二キロメートル)内外の周辺の村々から集めることにする。作業場には竃(かまど)を築く。しかし、ここでは調合して火薬をつくることはしないから火災の危険は全くない。
製造に必要な道具としては平釜や桶がいるが、それは職人が用意する。灰や真木(まき)は時の相場で買い取り、土運搬の人足には村人の協力を得たいが、それにも賃金は支払う。食料は地元で購入し、炊事道具や寝具は損料を払って借用したいとのことであった。
同年三月十一日には清蔵と二人、十四日には職人頭太郎吉と一人が村に到着し、二十一日夜には次郎兵衛宅に移って作業を開始した。製造した硝石は高尾河岸から船で積み出した。そして職人たちは九月中ごろまでに製造を終えて、九月二十二日に引き払って江戸に帰って行った。
その間に製造した硝石の船積み納めの分は次のとおりであった(矢部洋蔵家 一四六五)。
 四月二十一日納め  七七貫九〇〇目 箱入り
 六月  四日納め ーニ〇貫目    箱入り
 八月二十七日納め  七〇貫目    箱入り
 九月二十三日納め  五〇貫目    箱入り
        合計三一七貫九〇〇目
また、この製造に掛かった材料、手間賃、運搬費などの諸経費は「硝石製二付諸入用書建帳」によると次のとおりであり、荒井村の名主平兵衛が立て替えていた(矢部洋蔵家 一四〇七)。
一 金三六両二分と銭八六六文 真木代 一七四六束
     ならし両につき四七束八分なり
 一 五両一分二朱と銭一三一文 萬(よろず)駄賃
 一 五両と銭六貫三〇〇文 諸色小物代 太郎吉へ渡す
 一 銭一貫七四八文 一〇本代
 一 金一七両二分二朱と銭二〇八文 田舎木灰代金一六九俵
 一 金五両也 五月十日太郎吉が江戸に出かけたとき木灰購入費として立て替え
 一 金二四両三分二朱と銭三貫九五八文 職人給金太郎吉へ渡す
 一 金六両也 萬桶代金
 一 金一七両三分一朱と銭三八五文 米代味噌味代諸色代 去る十月九日残らず新蔵方へ相渡す
 合計 金ーー八両三朱と銭一三貫六〇八文
 一方、これに対して御地頭所からの下げ渡し金は次のとおりであった(矢部洋蔵家 一四六二)。
   三月十一日   金一両二分
   七月 二日   金一〇両         
   八月 八日   金二〇両         
   九月十五日   金一五両         
   十月 七日   金一〇両
         合計金五六両二分
そして、翌慶応元年三月十九日の決算では、名主平兵衛にとって、この硝石製造の収支は金六一両二分三朱と銭一三貫六〇八文の不足で、その後、仕事が終わった後の用済みになった平釜三枚と桶類の売り払い代金八両二分三朱を差し引いて、最終的には金五三両と銭一三貫六〇八文の不足であった。
さらに、この後始末として職人太郎吉が製造した硝石を横流しした疑いが出て、江戸へ帰って間もなく行方不明になってしまった。そのため御地頭所の山本大三郎が支出した金の回収ができず、平兵衛は一〇両を用立て、さらに荒井村とこれに関わった石戸村にたいしての下げ渡し金としての二両と木灰代金の三両二分を四月二十九日に用立てている。そして、この硝石製造に関わった山本大三郎は不首尾に終わったためであろうか、それとも太郎吉の横領事件に関わったのであろうか、いずれにしても召し捕られてしまった。
それでは、なぜ市域の荒井村で硝石を製造するようになったのであろうか。確かに嘉永六年(一八五三)のペリーの来航以来諸外国との和親条約、通商条約の締結、開港、そして桜田門外の変、生麦事件といった数々の事件は我国にとっては、まさに内憂外患といえる情勢であった。そのために旗本も武備をしなければならなかったであろうが、この硝石製造については、多分にこれで収入を得ようとしたのではないかとも思えるのである。
例えば、元治元年(一八六四)五月の山本大三郎から名主平兵衛への書状(矢部洋蔵家 一四五六)で、納めた硝石の売りさばきをみると、玉薬御用会所の相場では一両に三貫目替えだったので、別の所へもって行ったところ、見本と大いに違うので三貫目替えでないと引き取らないというのを、折衝の末二貫七〇〇目替えでようやく売ることができた。確かによく見ると、見本と違い塩気が多く色も赤い、また、上包みは灰汁俵を使っているので、それが箱の中までしみこんで余計見ばえが悪くなっている。今後は灰汁俵を使わないように職人に伝えて欲しいと書かれている。このときの硝石は四月二十一日納め分の七七貫九〇〇目と思われる。売上代金は二〇両であった。平兵衛の立て替え分も早く渡したいので、どしどし製造して送って欲しいと書いている。
なお、硝石は箱詰めにするが、ー箱の重量は一様ではなく、四月二十一日に高尾河岸から積み出された六箱を見ると、七貫五〇〇目二箱、一四貫八〇〇目ー箱、一六貫目二箱、一六貫一〇〇目ー箱となっている。また、七七貫九〇〇目で積み出した品物も江戸の改めでは六二貫一〇〇目に目減りしている(矢部洋蔵家 一四五五)。また、この売りさばきに当たっての口銭は、一両について二貫五〇〇目のところ、世話人に五〇目ずつ上乗せした(矢部洋蔵家 一四五八)。
硝石製造に必要な木灰は江戸から荒川の舟運を使って送られていた。船は高尾河岸問屋儀右衛門、此右衛門、あるいは御成河岸の藤太郎などの持ち船を使い、多いときは一〇〇俵も積んでいた(矢部洋蔵家 一四四六~一四五〇)。
しかし、江戸からのものだけでは足りなかったようで、近隣の村々からも買い上げている。例えば、元治元年三~四月にかけて買い上げた地域を見ると、鴻巣・糠田・常光・大間・郷地の宿村(鴻巣市)、桶川・川田谷の宿村(桶川市)、それに市域の本宿村と思われる。買い上げ値段は一俵について六〇〇~六五〇文位であったようだ。そして、この仕事は専松という者が一手に扱っていた(矢部洋蔵家 一四一〇)。
さらに灰を運ぶ駄賃は、遠近で異なるのは当然であるが、最も遠い大間村からは一俵について(以下同じ)一三二文、郷地村からはーー六文、糠田村と常光村からは一〇八文、鴻巣宿・桶川宿・川田谷村からは六七文、そして荒川の荒井河岸からは二五文であった(矢部洋蔵家 一四〇八)。
しかし、硝石を煮詰めるために使った真木一七四六束の供給と硝石製造で最も重要な材料である床下の土の供給についての資料が現在のところ見いだせないので、明らかにすることができない。
この荒井村における硝石製造は元治元年三月から九月にかけての誠に短期間の出来事であった。社会不安に加え経済的な不安を抱えた旗本牧野鉄次郎の台所をすこしでも潤わせようとした家臣の企てであったが、不首尾に終わってしまい、結局知行所の負担になってしまった。

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