北本市史 通史編 近世

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第4章 幕末の社会

第1節 異国船の渡来と村落

1 江戸湾の防備

鎖国政策をとってきた徳川幕府に十八世紀後半から西欧諸国のアジア進出により開国の外圧が強まった。最初に日本近海に姿をあらわしたのはロシアで、安永七年(一七七八)に国尻島(国後島)に来航し松前藩に通商を求めた。寛政四年(一七九二)にはロシア使節ラクスマンが根室に来航し通商を求めた。その四年後にはイギリス船が、享和三年(一八〇三)にはアメリカ船が長崎に来航して貿易を要求するなど諸外国の動きが活発になってきた。このような情勢に対し幕府は、北方では蝦夷地やその周辺の防備を進める一方で、本州でも沿岸防備を重視し、埼玉県域の諸藩には江戸湾防備を担当させた。
『県史通史編四』P七〇九によれば、川越藩は相模国の三浦郡や淘綾(ゆるぎ)郡に七〇〇〇石の分領があったことから、寛政年間(一七八九~一八〇一)にロシア船が日本近海に姿を現わすようになると、藩の警備もさることながら幕府では老中松平定信が江戸湾の防備体制に力を入れた。川越藩では幕府の命令に従って物頭(ものがしら)一人・目付一人・組騎士四〇人を相模常駐として強化したが、定信の老中退任により警備もしだいに縮小されていった。
川越藩が幕府の海防政策の重要な一環に組込まれたのは文政三年(一八二〇)のことで、この年相模の江戸湾警衛は会津藩から浦賀奉行が担当することとなった。そして、非常の際には川越藩・小田原藩が軍勢を派遣して防衛に当たることを命じられた。これに伴ない川越藩は鎌倉郡・三浦郡に一万五〇〇〇石が加増された。相模常駐の人員は一一六人で武器は大筒三挺(ちょう)・鉄砲一六挺・弓四張であった。異国船が渡来した場合、川越から「一番手」と呼ばれる八六人の軍勢が増派されることになっていた。以上は藩士の動員態勢であるが、藩士の活動を側面や背後から支援するために領内には夫役(ぶやく)人馬の態勢も整えられた。その数は五〇か村から人足四五五人 馬七八疋であった。天保十三年(一八四二)幕府は一七年前の異国船打払令を撤回し、薪水給与令を発令した。それとともに八月には川越藩主松平斉典に相模備場の警備を命じ、また文政六年(一八二三)から代官の管理の下で佐倉藩・久留里藩が応援することになっていた房総でも、この時忍藩主松平忠国に警備替えが命じられた。幕府は川越・忍の両藩に江戸湾警備を任せようとした。このため両藩は警備施設の整備拡充と人員増を余儀なくされた。

写真34 黒船を見にきた人々

(県立博物館蔵)

弘化三年(一八四六)アメリカ東インド艦隊司令長官ビットルの率(ひき)いる二艦が江戸湾口に来航した。退帆までの一〇日間の人馬の動員数は五万五六七〇人、一八六疋という膨大さであった。ビットルの来航は幕府や警備諸藩に海防強化の必要性を強く認識させることになり、相模では川越藩に加えて新たに彦根藩が、房総でも忍藩に加えて新しく会津藩が警備につき、江戸湾は四藩体制で防備が行われることになった。防備の強化は即財政負担の増大となってはね返った。地元相模や房総の村々の夫役動員の困難は、当然国許の村々へも影響を与える。忍藩の場合、嘉永三年(一八五一)以前は高一〇〇石につき馬一疋・人足三人の規定が、これ以後は馬三疋人足一〇人と一挙に三倍増となり、行田の商人には御用金が賦課された。このように江戸湾の警備は藩の経済力を弱体化させ、領民は夫役に苦しめられた。

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