北本市史 通史編 近世

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第4章 幕末の社会

第4節 東征軍の通行

慶応四年(一八六八)三月、鳥羽・伏見の戦いによって幕府軍が敗北すると、東征軍は東山道先鋒総督軍が中山道を通行して江戸に進軍した。三月六日には斥候隊が県内に入り、九日には官軍総督岩倉具定以下の本隊が深谷宿に到着、この通行によって宿駅は人馬の継送りが多大となり混乱を起こすほどであった。三月四日付で官軍先鋒斥候隊から深谷宿に宛てた書状には、先鋒総督の通行について定助郷・加助郷・代助郷などの村々は深谷宿役人からの触れが出されたら、遅滞なく村役人が付き添って出役すべきことが述べられている。この通行がどのくらいの人馬を使用したのかを三月八日から十二日までの五日間について、熊谷宿を例にとると次のようになる(『県史資料編一五』Na三一一)。

八日九日ー〇日ーー日ー二日
定助郷人足五二八人二ニ二人一三〇一人一三〇一人四四三人三七九五人
九五疋九五疋一五一疋一五〇疋一五〇疋六四一疋
当分助郷人足ー二九七人七七八人ー二九七人ーニ九七人一二九七人五九六六人
忍領分人足三〇〇人四〇〇人六〇〇人六〇〇人〇人ー九〇〇人
日計二ニー五人一四〇〇人三一九八人三一九八人一七四〇人ー万一六六一人
合計でー万一六六一人となり、勤高は一〇〇石に付き五人、又は三人の割合になっている。この外に熊谷宿で勤めた二五〇人・二五〇疋を合わせるとー万一九ーー人・八九一疋となる。また八日から十一日まで大名の荷物など六五七三人・五二八疋を負担しているから総計ー万八四ハ四人・ー四一九疋の人馬役負担となり、この一行が中山道を江戸に向っていき、これらを負担した沿道の村々は非常に重い負担となったことが知られる。

図25 戊辰戦争下の県域の騒擾(そうじょう)

(『県史図録』P208より作成)

表49 戊辰戦争下の主な騒擾
地  域 発生時 内  容 
児玉・那珂郡43村 2月15日 銃隊取立反対騒動 
寄居村組合
(榛沢・男衾・比企37村)  
2月22日 出流山一件不正、銃隊取立反対 
秩父郡下吉田組合 2月28日 出流山一件不正糾弾 
埼玉郡羽生領・騎西領 3月10日 大小惣代打ちこわし、放火 
男衾郡木部・西ノ入村周辺 3月15日 名主・割元役不正追求、質地返還 
男衾郡勝呂村 3月19日 貼札・質地返還・施金施米 
深谷宿組合
(榛沢・幡羅72村)  
3月 出流山入用不正糾弾 
比企郡腰越・青山村 3月 質騒動 
葛飾郡幸手宿周辺 4月15日 困民徒党 
埼玉郡下新井村 4月17日 徒党、富家押入り 
足立郡桶川在 4月17日 徒党、富家押入り 
入間郡勝楽寺村 4月 貧民徒党、打ちこわし 
秩父郡中津川村 名主不正、借金肩代り、賦役廃止 
秩父郡小鹿野周辺 貼札、施金要求 

(『県史図録』P208より引用)


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