北本市史 通史編 近世

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第4章 幕末の社会

第1節 異国船の渡来と村落

3 英艦渡来と市域

負担の実際
文久三年(一八六三)三月十二日、荒井村と小泉村(上尾市)両村の知行主であった江戸の牧野鉄次郎から、小泉村の名主蝶右衛門に飛脚で危急の知らせが入り、そのことで次のような書状が荒井村の平兵衛のもとに、これまた飛脚で知らされた。

御添書啓上仕候、然ば此度神奈川表へ英国船数艘渡来の趣に付、御地頭所様より御飛脚御用状只今到来致す、依て早刻差上申し候間御考えを被相成候、右に付御相談申し上げ度き義御座候間、左様御承知下さる可く候、以上
 当郷十二日飛脚賃銭私どもにて立替置申し候間、是又御承知下さる可く候、以上

小泉村蝶右衛門


 荒井村 矢部平兵衛様

(矢部洋蔵家 二三〇八)



写真36 英国軍艦渡来二付軍用金上納立替金并夫人足差出方遣ひ払覚帳

(矢部洋蔵家蔵)

翌十三日に蝶右衛門が携(たずさ)えて来た書状は次のようなものであった。その核心は神奈川表へ英国軍艦が数艘渡来し、戦争になるかも知れない。そこで強壮な夫人足と組頭一人、それに軍用金二〇両を江戸まで持参せよ、というものであった。

急便を以て啓達せしめ候、陳ば此度神奈川表へ英国軍艦数艘渡来、時宜ニ寄り兵端を開くべく哉と公儀より仰せ出され、右殿様にも相図り次第浅草御蔵方御固め仰せ付けられ候、これに依り夫人足両人組頭壱人強壮の者相選び、明後十四日中に相違無く差出す可く候、且又御軍用に付急ぎ才覚金廿両此の節柄の儀に付早々これを取立、夫人差出候節持参これ有る可く候
小泉村蝶右衝門手船所持に付、御惣容様御知行所へ御立退き用意として早々江戸表へ差下す申し可く候、右の段伺申立度此くの如に御座候、以上
三月十二日 三宅勇之進
   巳ノ刻出
  荒井村 平兵衛殿
  小泉村 蝶右衛門殿
当郷小泉村にて一覧之上早刻荒井村へ廻送致可く候、以上

(矢部洋蔵家 二二八七)



この軍用金と夫人足の上納督促は、幕府から旗本、旗本から支配下の村々に命じられたものである。両村に命じられた二〇両と夫人足の負担割合については両村の村高に応じて上納したが、平兵衛としては急ぎでもあるので、荒井村は人足二人と組頭を十四日に出立させたい。二〇両については当村が一二両、小泉村八両のつもりで立替えておくと述べている。この軍用金は村内の農民に賦課されるわけであるが、至急上納しなければならないところから平兵衛がとりあえず立替えておいた。「英国軍艦渡来ニ付軍用金上納立替金并夫人足差出方遣ひ拂覚帳」(矢部洋蔵家 二三一〇)によって、負担の実際をみてみたい。

  是より立替方覚   三月十三日
 一金弐分   南   七五郎
 一金弐分    上手 竹松
 一金弐分弐朱  久保 新蔵
 一金弐分弐朱  市場 善次郎
 一金弐分       勘右衛門
 一金弐分    北袋 半右衛門
 一金壱両    同  栄次郎
 一金壱分    市場 佐与八
 一金弐分    久保 長佐衛門
 一金壱分    久保 酉蔵
 一金弐分    上手 久兵衛
 一金壱分    西浦 善右衛門
 一金壱分弐朱  久保 庄三郎
 一金壱分弐朱  北袋 亀次郎
 一金壱両    中新田 甚右衛門
 一金弐分      南 勝五郎
 一金弐分    東原 市郎右衛門
 一金弐分    北袋 友七
 一金壱分    北袋 清之助
 一金壱分    北袋 久蔵
 一金壱分    上手 平左衛門
 一金壱分    上手 文右衛門
 一金壱分    北袋 幸助
 一金弐分    東原 栄三郎
 一金弐分    久保 勇七
 一金壱分     南 平右衛門
 一金弐分    北袋 林蔵
 一金壱分    北袋 政次郎
 一金壱分    北袋 嘉十郎
 一金壱分    東原 高三郎
 一金弐分    北袋 源八後家
 一金壱分    宮前 寅之助
 一金弐分    塚越 兵蔵
 一金壱両也   平兵衛    〆拾五両壱分

以上三八名で負担していることがわかる。次にこの拾五両壱分の使途を示すと次の通りである。

  三月十四日
  一金拾弐両也  御軍用金 組頭幸助へ渡し上納
  一金三分也   夫人足弁吉へ渡
  一金弐分也   同   周蔵へ渡
  一金壱両也   組頭幸助へ渡
   但し右幸助、周蔵、弁吉三人、三月廿六日一ト先帰村
  五月朔日
  一金壱両也


夫人足小泉村安五郎へ渡候、尤も小泉村蝶右衛門より右同人へ遣し呉候様書面壱通差越申し候、夫善助  
五月五日
又ぞろ横浜表六ッヶ敷趣にて、御地頭所様より夫人足其外早々差出候様仰付られ候間、別人足弁吉・元吉・組頭幸助都合三人
六日差立申し候、尤入用渡し方左の通り、平兵衛立替渡
五日タ
一金壱両也  弁吉へ渡
 尤も帰村の節あまり候はば早速返金いたし候筈
六日朝
一金弐分   幸助へ渡出立の朝也

一金壱分   元吉へ渡 幸助へ渡し遣
 五月十日元吉帰村の侭也


    又覚
またぞろ御屋敷より火急ご入用金の義に付、与頭新蔵出府致させ右入用金立替方其外遣払共
 五月十日
 一金弐分 栄三郎 善左衛門 平左衛門 文左衛門 亀次郎 庄三郎
 一金壱両 新蔵 平兵衛
 〆金五両也
 右の分十日夜新蔵へ渡、夫松五郎、翌十一日新蔵出立、十四日帰村御改〆四日也
 右渡し金の内四両弐分請取、金弐分同人入用として渡し置
 一同十四日幸助帰村に成
 一小泉村安五郎十三日迄相勤帰村隙に成
 一弁吉は残し置候事
 一弁吉六月朔日帰村尤請代り人を差出す可き旨仰せ渡され候に付、則ち当分ご免願い仕り度に付与組幸助出府
  相勤
 六月四日
 一金弐分壱朱 幸助へ渡
  六月廿三日幸助帰村

写真37 英国軍艦渡来二付軍用金上納立替金并夫人足差出方遣ひ払覚帳

(矢部洋蔵家蔵)

この覚帳から窺(うかが)えるように、何か新事態が生ずるとすぐに村々に負担がかかってきた。火急のこととて名主平兵衛が立替えて、即刻江戸まで上納し、夫人足も提供している。勿論この費用は村の負担であった。夫人足が江戸で具体的にどんな役を勤めたかは不明であるが、三月出府したとき幸助、周蔵、弁吉の三人は一〇日間ほど、五月に出府した新蔵は二日間、弁吉は半月ほど、六月に出府した幸助は一八日間ほど滯在している。英艦の渡来が市域の農民にも重い負担として幾度も課せられた。

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