北本市史 通史編 近世

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第4章 幕末の社会

第1節 異国船の渡来と村落

3 英艦渡来と市域

英艦渡来
ここで、英艦の神奈川表への渡来の背景について述べておきたい。文久二年(一八六二)の政情は幕府、朝廷、公武合体策をとる薩摩藩、尊王攘夷を唱える長州藩などが複雜に絡み合いながら展開していた。そういう中の八月二十一日帰京の途の薩摩藩の島津久光の行列護衛の藩士が、おりから乗馬で散策中のイギリス人四人を殺傷するといういわゆる生麦事件が起きた。この事件に横浜在留の外国人は憤激し、イギリスの代理公使が幕府首脳部との間で外交交渉により事後処理に当たることになった。条約に規定された遊歩地で、白昼に無抵抗のイギリス人が殺傷されたことは幕府の責任であると強硬な抗議がなされ、翌三年二月十九日代理公使ニールは、前年の生麦事件の犯人の逮捕と斬首、それができなければ賠償金二〇万ポンドの要求をつきつけた。これに符合するかのようにイギリス軍艦が横浜に集結、一二艘の艦隊が幕府を威圧した。しかも三月八日までに明確な解答がない場合は、江戸を焼払うという脅迫も行ったので、横浜と江戸の両市民に大きな動揺を与えた。矢部家にはこのとき江戸市中に出された御触書の写しがある。幕府は英艦の万一の攻撃を予想して
 (前略)市中女子并老若の病者類早急の場合に至り、一時に騒立候えば混雑に相成る可き哉、此節在方所縁等これあり候ものは、追々立退き候義勝手次第に致す可し(後略)

と避難疎開の自由を認めている。この触書は三月十三日に出されたものであるが、三日後の十六日の日付けの「松平阿波守様御家来高畠五郎様御家族様方当所へ御立退御用意米買入諸向控」(矢部洋蔵家 ニニ九一)の小帳簿に避難に対応した疎開および飯米購入の依頼のことがのっている。
 松平阿波守様御家来高畠五郎様は牧野鉄次郎様御妹於応様、昨戌年中に嫁入御縁付遊ばされ候、右の御続を以って此度御府内御変革万一の節は、当村寺院に右高畑様御家族方御立退成され度き趣、当三月十六日御光来の上御無心仰付られ候、右に付御用意米拾四五俵御買入成され度きに付、別代金拾五両御渡成され候間、左の通り買入申し候、且御引越の事双徳寺へ掛合いに及び候処差支えこれ無き事

と記し、三月十六日米代金として拾五両を預り、翌日鴻巣で米拾四俵を拾三両壱分弐朱と銭七百八拾二文で購入している。立退き先の双徳寺との交渉といい、名主平兵衛は素早い対応をしている。この二日後の三月十八日今度は牧野家の関係者である丹五郎(領主鉄次郎からみてどんな関係に当たる人物か不詳)から平兵衛あてに次のような書状が届いた。
 一筆啓上仕候、春暖の節に御座候えば(中略)扱(さて)御聞及にも候えば、当地にて誠に誠に大変の事に御座候ば、明日にも異国人打払之趣御達し様子にて、夫々女中杯は知行所へ立のきせば、此地にても町方夫々場所の輩は立のき仰付られ誠に誠に大ぞらとぶに御座候、付ては少し小力でもこれ有る者は大金にて御かかえ成され候御大名沢山に御座候、まづまづ江戸は明日にもいくさはじまり候風聞専にして、左様相成候はば江戸人大筒それ玉にても半分ぐらいは人死にあろふと申す風聞、誠に誠に私もおそろしき相成り困入り候間、幸便を以って此段御頼申し上早々うつり度候間、当月すへ迄にわたくし代り御遣し下さる可く候、偏に偏に此段御願申し上げ、先は右御頼時候見舞迄申し上ぐ可き候、恐惶謹言
 三月十八日 牧野内 丹五郎
 平兵衛様  

(矢部洋蔵家 ニニ九二)


イギリスの威嚇がよほど効いたのであろう。危険を感じた丹五郎は江戸から離脱したいが仕えている身ゆえそれができないので、身代わりを送ってほしいとの歎願である。さすがにこれには応じられなかったとみえて、この関係の文書はこれのみに終っている。何かあればその負担はそのまま村々にかけられた。この後も四月十三日には江戸の三宅勇之進から平兵衛あてに、神奈川表の様子はしばらくの間平穏のようであるが、遠からず不穏となりそうなので、夫人足を差出してほしいとの書状を送ってきた。なお、追伸で、牧野鉄次郎の妻子が先日上川田谷村(桶川市)の仮宅へ引越した旨が知らされている。四月二十日には同じく勇之進から平兵衛宛に
幸便飛札を以って啓達せしめ候、然ば先便も申し遣り候通り御飯米并薪共払底の趣にて此高様より御貸申し上げ候、早最此高様にても払底相成甚以って差支申し候儀にて早々積出申し可く候、御貸金此度御主法相成ニ拾年賦五分之利息二相成候、就ては証文書替相成申し候間廿四五日迄の内に印形持参村役人共の内壱人出府有る可く候、右の段申し遣候間其の意を得可く候

(矢部洋蔵家 ニニ九七)


との書状が届いた。領主の台所から懐具合まで面倒をみさせられていることがよくわかる。
小泉村の蝶右衛門にも同様の全面依存の願いごとがきたのであろう。しかし蝶右衛門は負担に耐えかねて、平兵衛に泣きついている。
矢部家には七月四日作成の「英国軍艦渡来に付御地頭所夫人足勤入用割合帳」(矢部洋蔵家 二三〇三)も残されている。これによると、三月十四日から六月二十三日迄の人足提供は計九九人にのぼっている。このうち組頭幸助は一人でニ二人分応じているが、名主平兵衛に代わって領主との連絡に当ったり江戸に滞在したからで、一般夫人足は七七人分となっている。
さて、村方まで軍用金や夫人足の負担を強いた英艦の渡来による強迫は、五月九日幕府が賠償金に応じたことにより、一応幕府と英国との外交交渉が決着し、鎮静化した(その後英艦は横浜に六月二十一日まで碇泊し、二十二日に鹿児島に向かい七月二日に薩英戦争が始まった)。こうして戦争の危機が回避されると、またまた江戸から平兵衛に書状が届いた。その内容は次のようなもので、これも一つの戦後処理であった。それは三月十六日の書状にしたためた高畠様御一家が疎開した際の御用意米を、この度臨時の出費でお金が入用となったので、手数でも売却して代金を送っていただきたいというものであった。このあとの史料は残されていないが、領主の命令や依頼には迅速に対応していた平兵衛のことゆえ、この書状の依頼を忠実に実行したことは容易に理解されるところである。
以上、述べて来たことは荒井村の史実であるが、市域の他の領主とその支配下の村々にも大同小異の動きがあったものと推察される。

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