北本市史 通史編 近世

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第4章 幕末の社会

第2節 幕末の世相

1 乱れる秩序

いつの時代でも人々が社会生活を営んでいる以上何がしかの出入り、すなわちもめごとや争いが絶えないものである。岡野正家文書の中から、当時の本宿村の出入りに関することがらを上げると次の通りである。
 文政十一年(ー八二八)本宿村亀吉と日出谷村亀八の喧嘩。天保六年(ー八三五)百姓浅吉宅ほかで穀類の盗難。同九年長吉ら三人が村持ちの林木を勝手に売却。同十一年類焼した一五人が三〇両の借金の返済三年延期の願い。同十二年市兵衛が辰五郎に借金の返済をしない。同年留五郎の不身持で難渋。同十三年光五郎が放蕩息子を帳外願い。嘉永元年(ー八四八)不身持ちの聟養子をめぐる離縁訴訟。慶応二年(一八六六)聟養子をめぐる争いで打擲(ちょうちゃく)事件。同年本宿村の長吉外数人と上中丸村源蔵との争い。
次に矢部洋蔵家文書にも割合詳しく出入関係史料がのこされているので、その推移をとらえてみたい。
 嘉永二年(ー八四九)傷害事件。同年不実出入。同三年喧嘩。同四年打擲事件。同五年大出水で離渋。同六年畑荒し。同七年年貢米借用。安政六年(ー八五九)殺害事件。同年打擲事件。同年傷害事件。万延元年(一八六〇)馴合(なれあい)事件。文久三年(一八六三)傷害事件二件。元治元年(一八六四)不法事件。慶応四年(一八六八)の押入強盗事件。このほか年不詳ではあるが、畑荒し、狼藉(ろうぜき)事件、傷害事件二件も起きている。
次に事件の具体例を二、三取り上げてみたい。
慶応二年(一八六六)十一月、上中丸村の百姓文右衛門の子源蔵が本宿村の同年配の者ーー人を相手どつて知行所に訴状を提出した。これによると
 源蔵の姉たつは、同村の熊次郎を聟にもらい別宅に住んでいた。このころ、同村の粂蔵は困窮し潰百姓同様になってしまったので、熊次郎とたつを粂蔵方に夫婦養子再興を図ったが、不運にもたつは病死してしまった。そこで熊次郎の後妻に川島領芝沼村の長吉の娘たかをもらった。ところが今度は熊次郎が多額の借金をして家出してしまった。後家(ごけ)として借財を負っていたのでは思いやられるというので、たかへ聟の世話をしようと、今年の五月本宿村の組頭彦四郎がわたし(源蔵)の親文右衛門に話を持ちかけ、その後も度たび話の促進に見えた。八月一日には文右衛門が彦四郎方へ行ったが、粂蔵やたかの親戚筋さらには隣近所のものも交えて、明日改めて相談するということで帰ろうとすると大雨が降ってきたので、たか方へ泊った。ところがその夜三〇~四〇人の若者が徒党を組んで悪口雑言をはきながら文右衛門とたかを荒縄でしばりあげた。文右衛門は縄をつけたまま逃げ帰り、被害を届けようとしたので、たかの隣組の元次郎が文右衛門の本家丈吉方へ行き穏便に示談にしたいとの申し出を伝えると文右衛門らは応諾した。
 とりあえずこれで一件落着と思っているところへ、先ほどの若者多数が乱入、文右衛門を力づくでたか方へ連行し二人を青竹にしばりつけ、中山道を三~四回引き回したのち、たか宅前へ両人を曝しおいた。その後組頭の和吉宅の二階へ押上げ食事も与えずに置いたので、わたしが食べ物を運んでいる。このような打擲をうけ身体は疲れはて九死に一生を得るような法外な仕打ちを受けたが、この事件に村役人まで関係しているのは心外なので、先だって訴え出た。しかし、当月中旬までには受付けがたいというので帰村した。深井村の名主三郎兵衛が仲介に立ち文右衛門を引取り村役人宅で預ってくれたが、寒気もつのって来、からだは難儀をきわめ医者にかかっている。とにかくこの件は『なげかわしく心外難渋至極』につき、ぜひまた訴え出るものである。一同を召し出し厳重に裁いてほしい。
といった内容のものである。文右衛門がたか宅へ泊ったことを若者らが不義とみなしての暴行非法事件である(岡野正家九四・九六)。来る十六日評定所で対決する旨が示達されたが、この件の結末を示す資料は残念ながら残っていない。
次に文久三年(一八六三)八月の荒井・石戸宿・下石戸上の三村と江川新田村(吉見町)との間に取り替わされたー札を取り上げてみたい。この一札によると
 江川新田の名主常右衛門の養子郡次が、荒井・石戸宿・下名戸上村の若者六人に打擲され負傷するという事件があった。取締出役の糾明では次のようであった。七月七日荒井村の辰五郎ほかの者どもが江川新田の近くに行く途中同村の郡次と口論になった。これは偶発的だったのでこのままに過ぎた。ところが七月二十七日、荒井村地内で郡次と辰五郎ほかの者どもが出会った。このときはお互いに酔っており、ことばのやりとりが昂(こう)じつかみ合い押合いとなり、倒れたときに木の根や石などに当たり各所に疵を作った。これを聞き知った両方の親が驚き、疵もよく確かめないで検使をお願いした。疵の方は手方もよく、仕事に差し支えなくなった。もとはと言えばこの喧嘩は意趣遺恨があるわけではないので、われら仲裁人が示談を進めて行きたいので一札申し上げる、というものである。喧嘩であるが他村としかも複数で行っている(矢部洋蔵家八三六・九九四)。
三つめに押入強盗事件を紹介しておきたい。
 慶応四年(一八六八)五月二十七日夜八ッ時(夜中の一時半ごろ)、荒井村の百姓久兵衛方に表戸を強引に押し開け二人の者が刀と槍を持ち、各々頭巾覆面姿で押し入ってきた。子細を聞けば路銀に差支えてのこと、家中を残らず捜し金五両と銭三貫文、もめんさらしなどを奪い取り逃げ去ったという(近世№六六)。概括的に述べるならば、本宿村では天保年間(ー八三〇~四四)の出入りは経済的理由によるものが多いのに対し、幕末もおしつまってくると苛立った人間関係が原因となった暴力的事件へと変化してきたととらえることができよう。
荒井村でも幕末に迫るほど刑事事件が多発し、殺伐とし、村内秩序の乱れた世相となってきたことが如実に窺(うかが)えよう。

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