北本市史 通史編 近世

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第4章 幕末の社会

第3節 通行と和宮降嫁

2 皇女和宮の下向

写真39 和宮下向の行列の様子

(県立文書館蔵)

姫君の通行のうち最も大通行であったのは、文久元年(ー八六一)十一月、将軍家茂へ嫁いだ皇女和宮の下向である。将軍家と、孝明天皇の妹和宮の婚礼は、激動する幕政を安定させようとした、いわゆる公武合体政策の一つとして実現したものである。
和君の降嫁は、万延元年(一八六〇)に決定し、文久元年(一八六一)十月二十日京都を出発、中山道を通行し十一月江戸へ入ったが、行列の数は京方ー万五〇〇〇人余、江戸方一万人余に達したといわれている。行列は十一月十二日熊谷泊、十三日桶川泊、十四日板橋に泊まった後、十五日江戸に入った。
和宮もそうであるが、いずれの姫君も中山道を通行しているのは、通行最が多く、四日市・宮間、新居・舞坂間の渡海や、大井川のように川止めの心配のある束海道を避けた結果である。

写真40 中山道本宿村往還家並絵図

(吉沢英明家蔵)

大通行に際しての準備は数か月も前から行われ、文久元年四月桶川宿役人が本宿村に宛てた廻状には、御徒目付・御小人目付が京都を出発し、明十三日桶川宿に到着するので宿駅や間の村では詳細な絵図面を作成提出する旨が記されている。その具体的な報告は、本宿村のうち中山道に沿う家は、名前・表間口・畳数を調べ、十三日の四ッ時(午前ー〇時)桶川宿の問屋まで届けるというものである。この廻状によって本宿村から提出された絵図が「文久元年四月 中山道本宿村往還家並絵図」(近世№一七七)であろう。この絵図によるとほとんどが畳敷の部屋と座敷が設けられており、宿駅の旅籠屋と変わらないことが窺える。この調査は大通行であるため桶川宿のみの旅宿では間に合わず、桶川宿の前後にある宿駅は勿論、間の村をも旅宿にあてるためのものである。九月にはほぼーか月を費やして桶川宿本陣の普請が実施され、十一月には本陣・年寄の名で下向当日の諸品買上金として一五〇両を代官より一時借用し、休泊のための夜具は二四〇〇組を宿で揃えたが外に一六五〇組を千住宿などから借用、膳椀は宿方調逹分ーニ〇〇人前、借用八五〇人前とあって、下向による財政的負担は大きかった(『桶川市史四』№ニー七・ニーハ・ニニー)。
この大通行が幕府にとって重要であったことはその警備からも知ることができる。幕府は十月十九日付で目付宛に五か条の心得を定め、本庄宿から桶川宿までの間の抜道・間道の警備につき、次のようなことが申渡されている(近世№ー九八)。
  • 今度の通行は稀のことにて厳重なる申渡しもあり、騒ぐことなく、行儀正しく勤めること
  • 本庄より深谷までの警護の役人は、十一月七日朝出発して、八日朝から十四日まで勤めること
  • 深谷より熊谷までの警護の役人は八日朝出発して九日朝から十五日まで勤めること
  • 佐谷田より桶川までの警護の役人は、九日朝出発して十日朝から十五日まで勤めること
  • 警護役人の役所は最寄りの農家とするが野陣同様にて不便もあろうが我慢をすること
  • 持場は昼夜油断なく見回り、下向の御用の外は一切誰も通さないこと。助郷の者が多数通行するが、それらは札を持参しているのでよく調べること。侍といえども十分に調査して通すこと。近くの火災は速やかに消し、狼藉者は捕押さえ、小さなことでも持場を空けないこと。指定された人々の通過には下座すること
  • 行列が終了するまではそこを払わないこと
こうした警備は京都から江戸に至る中山道全般にわたって定められ、和宮が通行する宿駅は前後の三日間を通行止めにする程であった。
小針領家村の才領が記録した「人馬諸入用控帳」によれば(『桶川市史四№ニニ〇)、十三日に熊谷を出発した和宮は、八ツ時(午後ーー時)桶川宿本陣に着き、十四日は暁八ッ時(午前二時)に出発して板橋宿へ向かうという予定であった。また、和宮に同行した堂上方(四位以上の公家)は十一日より桶川宿へ泊まり、十四日は公卿がとまると記している。
和宮の通行によって使用された人馬数については明らかでないが、桶川から蕨までの五か宿は桶川に会所を設け、五か宿の定助郷・定加助郷・新加助郷一万人位を桶川宿に集め、十一月十四日の継送りに使用し、大宮・浦和・蕨の助郷に余りが出たら、ただちに板橋宿へ詰める。桶川・上尾の助郷は十五日の九ッ時(正午)までは桶川から板橋までは付通すようにさだめられている。忍藩の役人が警護として本宿村に宿泊した時の経費をみると、十一月九日から十六日までの警護役人および供人の宿礼・賄料・夜具損料代として七両一分六三二文を受取っている(近世№ー九九)。

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