北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第1節 地方制度の変遷

1 府藩県治下の北本

官軍の東征
北本の近代は、慶応四年(一八六八)一月三日に京都郊外で起こった鳥羽・伏見の戦いに端(たん)を発した戊辰(ぼしん)戦争により幕をあけた。長州・薩摩を中心とする尊王倒幕派は、慶応三年十月十四日に提出された将軍徳川慶喜(よしのぶ)の「大政奉還」の上奏によって倒慕の鉢先(ほこさき)を失うと、同年十二月九日、「王政復古」のクーデターを敢行し、皇族である有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を総裁に、公卿(くげ)・諸侯(大名)を議定(ぎじょう)、諸藩の倒幕派の藩士を参与とする、いわゆる三職を設置し、新政府を樹立した。ついで同日、小御所会議で将軍慶喜(よしのぶ)の辞官(当時内大臣)、納地を決定して、クーデターは成功する。これに対して、幕府側は一旦大坂に退き、体制を整え対応策を模索(もさく)するが、情勢は薩長(さっちょう)軍との武カ対決はやむなしに傾き、ここに、二六〇年余りにわたる幕藩体制を崩壊させる戊辰戦争が勃発(ぼっぱつ)した。この内戦を契機として、封建体制は急速に倒壊(とうかい)し、天皇を中心とする中央集権国家の創設をめざす大改革が始まったのである。
まず新政府は、旧幕府討伐のための軍事行動を開始した。同四年一月七日には、ひそかに海路大坂から江戸に脱出した慶喜に対し、追討令が発せられ、併(あわ)せて東海・東山・山陰・北陸の各道と、中国・四国・九州・奥羽の各地方に、それぞれ「鎮撫総督(ちんぶそうとく)」が任命された。同年二月三日には明治天皇の親征の詔勅(しょうちょく)が出されて、東海・東山・北陸の三道については、鎮撫総督を「先鋒総督鎮撫使(せんぽうそうとくちんぶし)」と改め、薩摩・長州・尾張をはじめとする二二藩の藩兵をこれに従属させ、ここに新政府軍=官軍が編成された。二月九日になると、総裁であった有栖川宮熾仁親王を「東征大総督」に、議定の嘉彰(よしあきら)親王を「海軍総督」に任じて、同十五日大総督一行総勢五万の東征軍は錦旗(きんき)を翻(ひるがえ)して次々と京都を出発、いわゆる東征が開始された。

図1 東征軍の進軍経路

東征軍は朝敵征伐の名分を掲(かか)げ、いわゆる官軍を名のり、諸藩に帰順を促(うなが)したので、東海道・東山道の諸藩は相次いで帰順し、特に東海道鎮撫軍(ちんぶぐん)はまったく戦闘なしで三月十二日品川に到着した。一方、東山道鎮撫軍は先鋒(せんぽう)が三月六日に碓氷(うすい)峠を越え、八日に高崎、九日には熊谷に到着し、忍城にせまった。熊谷に到着した東山道軍の先鋒隊の山吹藩一行は、「総督乗込の隊伍(たいご)は、まず第一に太鼓(たいこ)を腰につけた数人の楽隊がそれをたたきながら進行してくる。次に一隊の兵士は錦(にしき)の御旗(みはた)の前後を警備してくる。(中略)総督は青地錦の直垂(ひたたれ)で烏帽子(えぼし)着で虎の皮の皮鞘(かわざや)をかけた太刀をはき馬上で進み絵巻物を見るようであった。」(林有章『熊谷史話』P一五)という。錦の御旗をかかげた官軍は、新たな支配者としてのイメージを人々にうえつけるにふさわしい姿で登場した(『県史通史編五』P二七)。
ところで、当時の忍城下には、引きあげ途上の会津藩士約二〇〇名が宿泊していたうえに、旧幕府歩兵頭古屋佐久左衛門(ふるやきくざえもん)の率いる衝鋒隊(しょうほうたい)総勢八五〇名余が到着し、藩は重大な岐路に立たされていた。結局、天下の形勢に基づき、藩論は帰順に決し、衝鋒隊には金子(きんす)六〇〇両と草鞋(わらじ)一〇〇〇足を贈り退去を命じたため、古屋らは、下野の梁田(やなだ)に退いた。東山道軍は、ただちに追撃し、これを壊滅(かいめつ)させた。この時、岩槻藩は東山道軍に兵を出して協力したが、忍藩については、衝鋒隊に礼をつくして送ったことから、東山道軍の疑惑(ぎわく)を生み、城内の通行も厳重に取締られることになる。そのため十日には忍城攻撃が計画されるが、翌日藩主松平下総守忠誠(しもおさのかみただざね)がこれを謝罪し、勤王の誓書(せいしょ)を東山道総督府に提出することで、事なきを得た。やがて東山道軍は、十一日には鴻巣宿より北本市域を経て桶川宿に進軍するが、すでに六日には、鴻巣宿の問屋場から「官軍」の通行や宿泊に備えるべく、伝馬勤(でんまつと)め方の呼び出し廻状(近代№一)が出されており、官軍の通行の近いことが知らされていた。
その後、三月十二日には蕨宿、十三日には鎮撫(ちんぶ)総督の岩倉具定(ともさだ)、弟の副総督の具栄(ともひで)が、本隊を率いて戸田の渡しを越え板橋宿に到着し、いわゆる江戸城攻撃に備えることになる。別動隊の板垣退助参謀軍も甲州勝沼(山梨県勝沼町)で近藤勇の新撰組を破り、十四日には内藤新宿に到着したが、三月十三日・十四日の大総督府参謀西郷隆盛と旧幕府海軍総裁勝海舟との歴史的会談によって、江戸城は無血開城され、江戸は戦火を免(まぬが)れた。この会談の成功の裏には、戦火による横浜貿易への打撃を心配したイギリスの駐日公使パークスが西郷に強い要請を行ったことが明らかにされている。やがて四月十一日に、東山道先鋒総督府が東海道・北陸総督府とともに江戸城入りをする。この江戸城の平和的開城は当時の関東地方で起こっていた世直し状況に対処する旧幕府と新政府の妥協策として行われたものである。これによって新政府は、旧幕府の政治的権力の解体と自らの覇権(はけん)の確立をなし遂(と)げたのである。事実、関東各地では世直し一揆(いっき)と打ちこわしが激化していた。この幕末維新の激動期に起こった世直し状況は、小作農や貧農層の小作地や質地の返還要求の動きと、惣百姓による百姓代の公選などの反封建の政治的要求の動きによってあった。勝と西郷はこの世直し状況と社会不安の増大を最も恐れていた。このことはまた、新政府と官軍の階級的性格を示すものであり、これを端的にあらわすものとして、相楽総三(さがらそうぞう)の率いる赤報隊による「偽(にせ)官軍」の活躍があげられる。

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