北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第1節 地方制度の変遷

3 地方三新法の成立と旧郡・町村の復活

連合戸長制の実施
新政府による近代的地方制度創設をめざした明治十一年七月からの三新法体制は、その後一〇年間継続されるが、同十七年五月を境に大きく変化し、後半はますます地方行政の中央集権化が進む。政府は「町村の大法」と称して、戸長の官選制度?戸長役場管轄区域の拡大、及び区町村会法の改正などを相次いで実施した。その背景に、同十四年から始まった大蔵卿松方正義による国家財政再建のために行われたデフレ政策がある。
もともと三新法の一つ「地方税規則」自体、国費を節減し、諸?用を地方費として町村に負担を転嫁(てんか)することが目的であったが、松方デフレ政策は、この国費負担の軽減をさらに強力に推進するために、地方団体の行政能力の充実を図ってきた。そのため、三新法後に出された明治十二年の「町村会法」で住民の地方政治への部分参加を認めて、中央行政の統制外にあった町村を、国家行政の代行機関として位置づけざるを得なくなったのである。併せて、松方デフレ政策は深刻な農村不況をもたらし、埼玉県では米価や蚕糸価が暴落し、同十七年十一月には自由民権運動の激化事件として最大の秩父事件を勃発(ぼっぱつ)させるが、町村には政党組織が入りこみ自由民権運動の基盤となって、中央集権的統治機構そのものがゆすぶられるようになってきた。そこで政府は町村自治を再考し、町村内有力者の政府への抑制的な動きを封ずることをねらいとしてきた。いずれにせよ、この地方制度の部分的改革は、不況や自由民権運動がもたらした世情不安を、官選戸長制を推進することで国の意志を末端町村に浸透させて乗り切ろうという暫定的(ざんていてき)処置であり、抜本的改革は同二十二年の市制町村制施行をまつことになる。
明治十七年(一八八四)の地方制度の改正は、第一に戸長の官選制度の採用、第一一に戸長役場管籍区域の拡大、第三に連合町村会の開会、第四に町村費に対する費目・科目の指示及び徴収強化という四点に絞(しぼ)られる。
第一の戸長官選制については、従来公選だった戸長は府知事・県令の官選に改められただけでなく、その戸長を町村会の議長にすえ、議員中から互選された議長を廃止する改正も伴っていた。これによって町村会は統制され、事務熟達者による行政事務の能率化がはかられることになった。具体的には、埼玉県では同年六月二十四日に、県令代理であった少書記官笹田黙介から各郡長に宛(あ)てて「戸長撰挙法内規」が内達されて、実施に移された。それによると、
一、
町村戸長八県令特ニ之ヲ撰任ス
一、
戸長に撰挙スヘキモノハ、其事務ニ堪(た)へ満二十五歳以上ノ男子ニシテ、其町村内ニ住居シ名望(めいぼう)資産ヲ有ス者タルヘシ(以下略)
一、
戸長八郡長二於テ第二項ニ適応ノ者ヲ撰(えら)ヒ、族籍姓名年齢ヲ詳記シ、及履歴書ヲ副(そ)へ県令二具申スヘシ(以下略)

とある。これによって戸長は郡長の推挙と県令の選任によるという方式で選ばれ、はっきりと中央集権的統治機構の末端を担う行政官として位置づけられ、郡役所の戸長役場に対する監督も一層強められた。
第二の戸長役場管轄区域の拡大は、五町村五〇〇戸をもって一役場とし、これを連合戸長役場とするものであった。これによって地方行政区画は、府県-郡-連合戸長役場-各町村の四重構造となり、この体制は明治二十二年(一八八九)四月の市制・町村制施行まで続くことになる。この改正によって埼玉県は、明治十七年五月二十四日「町村之聯合(れんごう)」(『県史資料編一九』№一六九)の要領を郡長に内達した。この通達は「秘密ヲ要シ候条、他ニ不ㇾ洩様(もらさざるよう)深ク注意可ㇾ致(いたすべく)」として、秘密のうちに出され、実施されていった。その内容は以下のとおりである。
一、
町村聯合(れんごう)ハ凡(およ)ソ五百戸五町村ヲ目途(もくと)トス、(中略)但、一町村五百戸以上ノ者ハ可ㇾ成(なるべく)聯合セサルヲ要ス
一、
戸長役場位置ハ可ㇾ成中央二位スル町村トス、
一、
戸数人口ハ本年一月一日ノ現在トス
一、
学区モ追テ戸長役場ノ区域ニ随(したが)ヒ改正セサルヲ得サルへケレハ其積ヲ以テ聯合スルヲ要ス

これによって各町村に置かれていた戸長役場は廃止され、数町村を連合させて一行政単位とすることになったのである。また、学制の「学区」(小学区)もこの町村連合区と将来的に一致させることになった。なお、当時の全国の一町村平均戸数は一一七戸『県史通史編五』P五五一であったことから、五町村五百戸を標準として新たな町村造成を意図したもので、埼玉県では改正による連合戸長役場の数は表10のように三二九に及び、平均六町村に一連合戸長役場が設定され、一役場当たりの戸数は平均五三〇戸となった。
また、従来の戸長の私宅を兼用して戸長役場としていた状態も改められ、公私を分化し「お上の役場」の性格を鮮明化するとともに、別の建物を戸長役場とすることが命ぜられた。具体的には、寺院や学校・民家を用いた例が多かった。
表10 埼玉県連合戸長役場表         (明治17年7月現在)
郡  名  役場数総戸数一役場 平均戸数一役場 平均費額
北足立・新 座53
31,305

590.7

145.8
入 間・高 麗5128,663562132.2
比 企・横 見2313,521587.9140.9
秩 父3212, 624394.5110.3
児玉・賀美・那珂179,553561.9139.8
大里・幡羅・榛沢・男衾3820, 800547.4130.7
北 埼 玉4522, 956510.1135.5
南 埼 玉4320, 842484.7135.1
北・中葛飾2714,197525.8141.3
合  計329174,461530.3134.6

注 小数点以下第2位四捨五入
(『県史通史編5』P550より引用)


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