北本市史 通史編 近代

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近代

第1章 近代化の進行と北本

第2節 地租改正の実施と村財政

2 明治初期の地域農業

明治八年(一八七五)の市域は、石戸宿村・下石戸上村・下石戸下村・荒井村・高尾村・東間村・本宿村・深井村・宮内村・山中村・古市場村・中丸村・別所村・花ノ木村の一四か村からなっていた。
市域の多くの部分が、大宮台地上に位置しているため、基本的には畑作が中心に行われていた。水田は、荒川東部の台地下や赤堀川流域や台地間にある谷等で見られるだけで、台地上は畑と森林がほとんどだった。
明治八年(一八七五)の『武蔵国郡村誌巻之十六・十七』を見てみると、本宿村・東間村では、耕地の中にまったく田が存在せず、すべてが畑であった。石戸宿村は、耕地九五町四反七畝一二歩のうち、九二町七反六畝が畑であり、高尾村は、耕地一七七町一反五畝二四歩のうち、一六七町七反一二歩が畑という割合であったことでもわかるように、そのほとんどが畑であった。また、いちばん畑の割合の低い花ノ木村でも、耕地一九町六畝四歩のうち、九町二反八畝二四歩が畑という割合で、他の各地域でも、畑の占める割合が高率であった。
荒川流域の高尾村・荒井村・石戸宿村・下石戸上村・下石戸下村では、上流からの肥沃な土壌が河川敷に沖積することを利用して、その土を河川敷から運び出し、生産性を向上させるための土壌改良法であるドロッケ(客土)が行われていた。
この時期の市域の産物は、各地域によって若干の相違はあるものの米・大麦・小麦・大豆・甘蒔(サツマイモ)といった作物が生産されている。特に甘赫は、江戸時代末には、鴻巣宿八百屋とのさつま芋取引の交渉が数多くなされていることでもわかるように、重要な商品作物として裁培されていた。そのほかに、自給のための粟(あわ)・稗(ひえ)・蕎麦(そば)・小豆(あずき)等が生産されている。また、地域によってばらつきはあるが、古市場村・別所村・中丸村の人参(にんじん)、古市場村・別所村の里芋、古市場村・別所村・宮内村の大根、石戸宿村の藍葉(あいば)・茄子(なす)など換金性の強い商品作物もさかんに栽培されていた。

<< 前のページに戻る