北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第3節 小学校の設置と近代教育の発足

1 小学校の設置と維持

発足当時の学校の維持法
寺院などを教場として発足した草創(そうそう)期の小学校は、多くの場合教員二、三名、生徒七、八〇名程度であって、学校規模からみれば、昔日の寺子屋と五十歩百歩であった。北本市域に創設された四つの小学校は、地域の人口に比べて学校の数が少なかったこともあり、生徒数は当時の平均値よりやや多くいずれも一〇〇名を超えている。が、この程度の学校が明治初年の小学校の一般的な姿であるとすれば、一か月にどのくらいの経費を必要としたのだろうか。当時の公文書(開業願)をみると、学校の経費は教員給料、書籍、筆墨紙、薪炭油、営繕、雇給料等であって、その額は各学校によって違うが、一〇円前後が多かった。石戸学校の場合も、創設された明治六年の一か月の経費はおよそ一〇円であった(近代№一六三)。そのうち七円が教員(二人)の給料であった。他の学校でも教員給料が経費の主要部分を占めた。では、学校の経費はどのように調達されたか。次にその財源について見てみよう。
明治五年(一八七二)の「学制」は、教育は個々人の立身出世・治産昌業(ちさんしょうぎょう)のためであるとし、学校の費用はすべて「生徒之ヲ弁ス」(第九三章)ることを原則とした。いわゆる受益者負担主義である。そこで、生徒の授業料を第一次財源としたが、もしそれで足りない時には、学区で負担することとした。授業料は「小学校ニアリテハ一月五十銭ヲ相当トス外ニ二十五銭ノ一等ヲ設ク」(第九四章)と定められたが、「各区ノ情態及学校ノ事情」により規定額より低額に定めてもよいとした。
旧埼玉県では、その辺の事情を考慮して、当初、授業料を二五銭、一五銭、一〇銭の三等に分けたが、明治七年一月、一等二〇銭、二等一五銭、三等一〇銭、四等七銭、五等五銭の五等に改めた(「小学教則追加」第五条)。その際、「一等八上農之レヲ納メ、二等・三等ハ中農其分限ニ従ヒ之レヲ納メ、四等・五等ハ下農貧富ニ従ヒ之レヲ納ムへシ」(前同、第五条但書き)と等級と階層との関係を示し、さらに極貧者には授業料を免除する措置を講じた(前同、第六条)。翌八年には、「上産ノ者三十銭ヨリ二十銭迄 中産ノ者二十銭ヨリ七銭迄 下産ノ者七銭以下」(「埼玉小学規則」第一六三条)に改め、土地の状態によってその増減を認めるとともに、「貧困無カノ実迹(じっせき)アル者」には授業料を免除した(同上、第一三八条)。 
当時、授業料の徴収方法には三つの方法があった。その第一は貧富の程度によって授業料に格差を設ける等級型、第二は学年によって格差をつける学年型、第三は等級型と学年型を組み合わせた併用型、である。北本市域の各校がどのような方法によって授業料を徴収したのか、それを知る資料が乏しく個々に実証し得ないが、石戸学校では「生徒六拾人余有之、是迄受業料六銭二厘五毛ツ、取集金三円七拾五銭程相集・・・・」とあるから、毎月一律に六銭二厘五毛ずつ徴収したことがわかる。しかし、その額では月々赤字なので組合六か村の合議によって、生徒六〇人中三〇人を選び、明治六年(一八七三)十月より一〇銭ずつ徴収することとした(近代№一六三)。
各校はいずれかの方法で授業料の徴収を行ったわけであるが、その徴収は計算通りにはいかなかった。高尾学校は明治八年の一月から六月までの半年間に六七円五〇銭の授業料を徴収する見込みだったが、実際に取り立てた額はその半分の三三円一〇銭にすぎなかった。したがって一か年では一三五円取り立てるべきところ、納入されたのは六一円六五銭であった(近代№一六七・一六八)。これと同様のことは至るところで見受けられた。第一の財源と見込まれた授業料が期待はずれの状態にあれば、他に財源を確保しなければならない。そこで旧埼玉県では、授業料の徴収をする一方、毎戸に一か月一銭の学資金を賦課した。これすらも意のままに行かず、「村々二て難渋申居取立兼候」という始末であった。そこで石戸学校組合村では、協議の上余儀なき措置として各村に一定の負担(とくに毎月の赤字分)を課した(近代№一六三)。
埼玉県(旧)は、明治六年十一月戲育(ちいく)金制度を設けた。この制度は、「人口草高二応シ金穀ヲ蓄積シテ賑窮(しんきゅう)予備及学費ノ用ニ供シ、十六年間ニシテ五十万金ニ満タシメ、其ノ利子ヲ以テ学費ヲ支消ス」(『県治提要』P二四九)ることを意図したものである。つまり、村民に一定の基準(高一石当たり米一升五食麦一升五合)によって出金させ、これを毎年積み立て救済及び育英事業に充当しようとするものである。県がこうした制度を設けたのは、「学資金ハ、従前村々ニ於テ集ムル所ノ金高多少アリ、其方法一定ナラス、今度永世資金ノ方ヲ設ケ初テ其便ヲ得ントス」(県行政文書一六〇)との趣旨からであった。これを円滑に施行するため、埼玉県(旧)は明治七年(一八七四)四月「公私小学校費定額規則」(県行政文書 明一八四三、八年に改正)を定め、学校の規模による定額基準を設け、学資金(当初三万余円、のち五万余円に増額)の公平な分配を期した。以後、埼玉県(旧)の小学校経費は腋育(ちいく)金と授業料、それに学区内集金の三者によって賄(まかな)われた。一例を高尾学校にとってみよう。
明治七年の「埼玉県公私小学校費定額規則」及び翌八年の「本支学校々費定額規則」には公私別・本支別に等級資金定額表が示され、生徒数に応じて一等校から六等校に区分されているが、高尾学校は五等校に属した。田島和生家には、「五等校」とか「五等高尾学校」と記された学校関係文書が残されている(近代№一六七・一六八)。その一つ、明治七・八年の五等高尾学校金銭出納帳によれば、収入は次のとおりである。
御県庁ヨリ御下ケ金
一金九拾三円       定額金
   金四拾六円五拾銭     一月ヨリ六月迄 七月ヨリ十二月迄
  内
   金四拾六円五拾銭
壱か年金百三拾五円可取立所   授業料
一金六拾壱円六拾五銭      取集高
   金三拾三円拾銭      一月ヨリ六月迄 七月ヨリ十二月迄
  内金二拾八円五拾銭
荒井・高尾・原馬室三カ村
一金百八円八拾弐銭三厘七毛   学区内集金
九三
 金五拾弐円八拾銭壱厘五毛   九月十日割合

金五拾六円拾弐銭有厘五毛    九年五月廿五日同
七十銭二厘二毛
収入総計金弐百六拾三円四拾弐銭三厘七毛

これによって明らかなように、高尾学校の財源は定額金、授業料、学区内集金であって、その収入額からいえば学区内集金、定額金、授業料の順になっている。ここに定額金が学校の重要な資金になっていることが知られるが、実質第一の財源であった学区内集金は、「高尾学校費割合」(近代№一六七)によれば、「高百石ニ付金弐円廿四銭壱厘壱毛、戸数有戸ニ付金四銭」を基礎にして荒井・高尾・原馬室の三村から徴収した。その支出をみると、教員給料一四一円、僕夫給料九円、書籍代四六円八三銭七厘五毛、器械代一〇円六二銭、雜費五五円九六銭七厘となっており、教員給料が支出の過半を占めている。
こうした戲育(ちいく)金による学校維持法は、明治九年(一八七六)八月、熊谷県管轄旧入間県分と合併して現埼玉県が成立すると、全県を統一する共通の維持法が必要となって廃止され、翌十年十月、埼玉県学資方法成議を協議決定した。これによれば、学区内人口一人当たり一七銭を標準として公学校費を集め、それを一旦県に納め、県はこれを「常費金(じょうびきん)」として年四回各学区に還元するというものであって、同十一年と翌十二年の二か年間、この方法が用いられ、経費の重要な財源となった。しかし、残念ながらその詳細を明示する資料は発見されていない。

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