北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第3節 小学校の設置と近代教育の発足

1 小学校の設置と維持

相次ぐ教育制度の改革
我が国の近代学校制度を創定した明治五年の「学制」は、フランス・アメリカをはじめとする欧米列強の制度に学んで作成されたとはいえ、その出来栄えは立派なものであった。当時における代表的な洋学者をもってしても、短時日に、乏しい限られた情報を駆使しての作業には、多くの困難辛苦を伴ったはずである。こうした明治維新期の情況を考えれば、全二一三章に及ぶ「学制」を短時日に仕上げた学制取調掛(一二名)の労は多としなければならない。
しかし、それが立派なもの、理想的なものであればあるほど、その実施には多くの困難が伴った。とくに大衆学校としての小学校の設置・維持を民費、すなわち教育費の民衆負担、それも過重な負担を負わせる結果をもたらしたことは、「学制」の施行を短命に終わらせる一大要因となった。事実「学制」は実施数年にしてさまざまな問題にぷち当たり、政策変更を余儀(よぎ)なくされ、一方に民衆の不信不満を惹起(じゃっき)した。二六〇余年にわたった徳川封建時代が終わり、「明治」という新しい時代が開幕しても、一般民衆の生活状況は従来と変わらず、というより新たな負担に苦しめられるような状況にあった。生活苦は新政府の政策に対する不信感を増幅させ、あちこちに暴動を発生させた。学校もしばしばその対象となった。こうなっては、理想よりも現実を重視した新たな施策を講じなければならない。理想的プランとしての「学制」の現実的再編成である。そうした趣旨のもとに成立したのが明治十二年(一八七九)の教育令(以下、第一次教育令という)である。
「学制」を廃して公布した第一次教育令は、従来の画一的な中央集権行政を改めて、教育の権限を大幅に地方に委(ゆだ)ねる方針をとった。まず「学制」において学校設置の基本とされた学区制を廃止し、町村単位に公立小学校を設置することとした。これは明治十一年の三新法(郡区町村編制法、地方税規則、府県会規則)による地方制度の改革につながっているが、学区制の廃止は「学制」の崩壊(ほうかい)を象徴する出来事であった。また、「町村人民ノ公益タルへキ私立小学校アルトキハ、別ニ公立小学校ヲ設置セサルモ妨(さまた)ケナシ」(第九条但書き)とし、「学制」期の公立中心主義を緩和(かんわ)した。
教育行政の仕組みも大きく変わった。大学区に置かれた督学(とくがく)局、中学区に置かれた学区取締はいずれも廃され、町村民の選挙で選ばれた学務委員によって学校を管理することになった(第一一条)。文部省及び地方長官の監督権限を弱め、町村民の自治を主体として学校を運営するアメリカ流の方式が採(と)られた。
就学義務も大幅に緩(ゆる)められた。「学制」では下等小学四年、上等小学四年の計八年の就学を強制したが、教育令では、同じく八年間の学齢期間中、最低四年間毎年四か月以上すなわち一六か月就学すればよいとした(第一六条)。さらに「学校ニ入ラスト雖(いえど)モ、別ニ普通教育ヲ受クルノ途(みち)アルモノハ就学卜做(みな)スヘシ」(第一七条)と規定され、学校以外の就学を認めた。学校以外の就学を認めなかった「学制」期に比べて、これも重大な変更を意味した。このような就学義務の緩和(かんわ)策は、当然、きびしい就学督促の緩和となり、各地方の実情に合致させることにした。
小学校の教科も大幅に整理され、必修は読書・習字・算術・地理・歴史・修身の六科目となった。教則に関する統一基準も特に示されなかった。それぞれ各学校の実情に応ずる教則を編成して実践に臨(のぞ)むことを勧(すす)めた。このように第一次教育令は、中央の統制と干渉をゆるめて教育の権限を大幅に地方に委譲(いじょう)し、学校の設立や就学義務を緩めて町村の自治に委(ゆだ)ねる方策をとった。こうした改革は画一的といわれた「学制」への批判にこたえるとともに、自由民権運動や窮乏した国家財政にも対処する性質のものであった。しかし、それは当局者の意に反して公教育の不振という重大な結果を招いてしまった。本県もその例外ではなく、就学率は男女ともはっきりと低落傾向をあらわした(「就学督励と就学の実態」の項参照)。
そこで、白根県令は明治十三年(一八八〇)五月、河野(こうの)文部卿に対し「上文部卿書」(写真11)を提出し、第一次教育令の改正を強く求めた。同じころ他の地方長官からも同様の意見書が多く提出されたという。一方、明治天皇も自己の教育意見を「教学聖旨」として認(したた)め、政府の要人に内示していた。そこで文部省は両者の意見を考慮して第一次教育令を改正することとし、同十三年十二月、第二次教育令を公布した。

写真11 上文部卿書

(県行政文書 明1848)

第二次教育令を第一次教育令と比べてみると、学校の設立や就学義務などについてきびしく規定するとともに、教育における府知事・県令の権限を強化している。まず就学義務については、その責任を「父母後見人等」とし、彼らに三か年の就学義務を明確にした。そして年間の授業日数を三二週(現在は三五週)以上と定め、学校はほぼ常時授業を行う体制をとるべきものとした。
小学校の設置については、従来単に各町村あるいは数町村連合して設置すべきことと定めていただけであったが、第二次教育令では「府知事県令ノ指示」に従い、独立または連合して「其学齢児童ヲ教育スルニ足ルへキ」一箇(こ)もしくは数箇の小学校を設置しなけれぱならないとした(第九条)。また、私立学校についても、その設置は府知事・県令の認可を必要とし、公立学校に代用する私立小学校についても同様の認可を必要とした。公立小学校の設置に関する府知事・県令の権限を強化したわけである。
学務委員の選任も府知事・県令の権限となった。第一次教育令では学務委員は町村民の選挙(公選)によったが、第二次教育令では「学務委員ハ町村人民其定員ノ二倍若(もし)クハ三倍ヲ薦挙(せんきょ)シ、府知事県令其中ニ就テ之(これ)ヲ選任スヘシ」(第一一条)と定め、選任権を府知事・県令に与えた。また、「町村立学校ノ教員ハ学務委員ノ申請ニ因り、府知事県令之ヲ任免スヘシ」(第四八条)とされ、教員の任免も府知事・県令が行うものとした。
一方、文部省の権限も復活・強化され、就学督責規則、小学校教則、学校等の設置廃止規則、小学校教員の俸給額等はいずれも文部卿の認可を必要とした。また、小学校教員は官立の師範学校の卒業証書をもつものに限るとし、私立の師範学校の存立を実質的に不可能にし、国民教育の担当者は、国家の手によって養成する方針を打ち出した。このようにして以後教育は、府県及び文部省の管理のもとにおかれて展開されるようになったのであるが、経済的不況の影響などをうけて教育令は明治十八年(一八八五)に三たび改正されることとなった。そして、翌十九年にはそれも廃されて諸学校令の公布となる。

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