北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第3節 小学校の設置と近代教育の発足

4 教育の内容と方法

「学制」期の教科課程と教科書
「学制」を公布した翌月、文部省は小学教則を創定した。これは小学校の各教科を等級別に配当し、使用教科書と教授方法の大要を示したものである。この小学教則とは別に、師範学校でも外国人教師(M・M・Scott)の指導のもとに明治六年(一八七三)五月、小学教則を制定した。この師範学校制定の小学教則は、読物・算術・習字・書取・作文・問答・復読・体操の八科目からなり、文部省の小学教則の学科構成とは全く違ったものであった。
埼玉県(旧)の「学制」実施への取り組みは早く、明治五年に一四校、翌六年には二一九校設置された。これらの学校に関する基本規程は、公私小学規則(明治六年八月)によって定められ、そこには教育内容について、「現今已ニ開業ニ及ヒタル学校ハ総テ尋常小学ナレ八勤メテ正則ノ教科ヲ施ス」(第二一章)べきこと、村落小学・女児小学は別冊の教則によるべきことが指示された。しかし、埼玉県(旧)が独自の教則を制定したのは明治七年二月であって、それまでは文部省の小学教則に準拠した。
明治七年二月、埼玉県が定めた小学教則は下等・上等からなり、それは文部省及び師範学校創定の小学教則に準拠したものといわれるが、どちらかといえば師範学校の小学教則の影響が強い。そのことは下等小学の教科に「問答」科が置かれていることをみれば明らかである。明治九年(一八七六)六月に改正され、新埼玉県(現埼玉県)成立後にも全県下に適用された「埼玉県小学教則」においては、その傾向が一層顯著であって、下等小学の教科は読物・算術・習字・書取(第五級以上は作文)・問答・復読・体操の七科とされた。小学教則に示された教科書は、当時文部省や師範学校等で編集された教科書であって、そのほとんどが翻訳翻案的教科書であり、いわゆる文明開化の教科書であった。今日の国語に該当する「読物」に例をとり、下等小学各級の教科書を見てみよう。
表23 下等小学「読物」教科書
第一級第二級第三級第四級第五級第六級第七級第八級
師範学校板文部省板文部省板師範学校板師範学校板一師範学校板改正局板伊呂波図
小学読本小学読本小学読本小学読本小学読本小学読本連語篇五十音図
巻 五巻 五巻四巻 四巻三巻二濁音図
師範学校板師範学校板師範学校板師範学校板師範学校板師範学校板師範学校板単語図
万国史略万国地誌略万国地誌略日本地誌略日本地誌略地理初歩小学読本連語図
全巻巻三巻一、二巻三、四巻一、二巻一
 師範学校板
 日本略史
 全巻

(明治九年六月改正 「埼玉県小学教則」より作成)


表23が示すように、「学制」期に広く普及した「読本」には二種あった。一つは師範学校(東京)で編集した『小学読本』(田中義廉編)、もう一つは文部省内で編集した『小学読本』(榊原芳野編)で、どちらも文部省から出版された。前者は、主としてアメリカのウィルソン・リーダーを原本として編集され、文明開化の波にのって全国的に普及した。なお、表23より注目されることは、地理・歴史・修身・理科等に関する書物が「読物」の教科書として登録されていることである。埼玉県がモデルとし、下敷きにした師範学校の教則には、地理・歴史・修身・理科といった独立の教科はなかった。それらの教科内容は「読物」や「問答」のなかで扱われた。したがって、この種の教科はいずれも総合教科として存在したわけである。後に国語科が形成した総合的性格の原型をここに見出すことができる。
ところで、「小学教則」に指定された教科書は、当然ながら県下に広く普及した。北本市域の学校もその例外ではなく、『諸家資科目録』(市史編さん調査報告書五)には当時使われた教科書が収録されている。そのなかには師範学校板(ママ)『小学読本』(田中義廉編)をはじめ・『日本地誌略』・『万国地誌略』・『日本略史』・『学問のすゝめ』・『窮理図解』・『日本国尽(くにづくし)』等当時を代表する教科書が残されている。これらの書籍=教科書は、いずれも木版刷り和装本の体裁で発行されている。したがって、一度に大量に発行することができなかったので、学校の費用で必要な書籍を購入し、学校に備えつけて利用することが便法とされた。この時代においては、教科書は出版・流通事情との関係から多分に児童用というよりも教師用というべき性質のものであったといえよう。


写真23 小学読本一

(小林恒一家 660)

写真24 学問のすすめ

(岡野庚吉家 3)

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