北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第3節 小学校の設置と近代教育の発足

4 教育の内容と方法

個別教授法から一斉教授法へ
すでに述べたように、明治五年(一八七二)の「学制」は国民皆学をめざして小学校を全国に五万三七六〇校設置する計画を立てた。したがって、一校一教員と仮定しても五万三〇〇〇人以上の教員が必要となる。しかも、近代学校の基底としての小学校教員には、従来の寺子屋師匠とは異なった資質能力が要求された。となれば、小学校の教員は量的にも質的にも新たに養成しなければならない。
そこで文部省は、いち早く東京に師範学校という教員養成機関を設け、まず小学校教員の養成に着手した。それは同五年五月のことであって、「学制」発布三か月前であった。学校の教員を組織的・計画的に養成することは初めての経験なので、お雇い米国人教師で師範教育の経験をもつスコット(M・M・Scott)を大学南校(東京大学の前身)より招き、全国から生徒を募集して同年八月に開校した。
一方、各府県でも小学教員の需要に応えて簡易の教員養成機関を設けて小学教員の速成を行った。同六年一月、埼玉県(旧)が浦和に設けた改正局は、近代学校の発足に当たって県が設けた最初の教員養成機関であった。すなわち、この改正局は「管下小学教則ヲ釐正(りせい)シ、兼テ教員タルモノヲシテ教授ノ方法ヲ学ハシムル処」(『文部省第三年報』所収文部省中督学畠山義成の報告)として設けられたもので、翌七年八月には校舎を新築し、「埼玉県師範学校」と改称した。しかし、「小学教授法ヲ講習ス」るという本来の機能には大きな変更はなかった。以後、しばらくは教授法の伝習を最優先した形の教員養成が行われた。

写真28 小学校教師必携

(窪田祥宏氏蔵)

では、改正局や師範学校という教員養成機関で伝習させた教授法とは、どんな方法だったのだろうか。それは一語でいうならぱ、お雇い教師スコットが日本に伝えた方法であって、学級組織による一斉教授の形態であり、掛図を利用した直観教授の方式を加味したものであった。ここに従来の寺子屋の個別教授に代わって、直観教授を加味した一斉教授法が導入され、それが近代的教授法として教員養成機関を拠点として伝達講習方式で伝播していった。こうした教授法が「学制」の施行に際して導入されたのは、多数の子どもを対象に、多くの知識を安価にしかも能率よく教える、という要請に対応していたからである。国民皆教育をめざす近代教育の発足は、教授方法の面にも一斉教授という新しい教授法を採り入れ、定着させた。今日、スコットの伝えた教授法を直接知ることはできないが、当時の師範学校長諸葛信澄(もろくずのぶすみ)の『小学教師必携』(明治六年)によってその大要を知ることができる。下等小学第八級(今日の小学校第一学年前期)の「読物」の最初の部分を紹介しよう。
一五十音図ヲ教フルニハ、教師先ヅ其教フベキ文字ヲ指シ示シ、音声ヲ明カニシテ誦読(しょうどく)シ、第一席ノ生徒ヨリ順次ニ誦読セシメ、然ル後、調子ヲ整へ、各ノ生徒ヲシテ一列同音ニ数回復サシムベシ、但シ同音ニ誦読セシムルトキ沈黙シテ誦読セザルノ生徒アルガ故ニ、能(よ)ク各ノ生徒へ注意スルコト緊要ナリ、稍ゝ(しょうしょう)熟読スル後ハ、草体ノ五十音及ビ濁音ヲモ兼ネ教フベシ、
以下、単語図、連語図の指導法を紹介している。直観教授(実物教授)を加味したこのような一斉教授法を習得するとともに、新教科に関する知識を身につけた者、これが当代における理想的教師像であった。「学制」はこうした教員を必要数養成した上で実施したのではなかった。したがって、旧寺子屋の師匠・神官・僧侶をはじめさまざまな人がかり出された。小学校発足当初、教員の再教育が教員養成上の重要な課題となったのはそのためである。
かくして、近代学校には新知識と新教授法をマスターした教員が期待され、歓迎されたわけであるが、半年進級の等級制下においては、一斉教授は実質的にはなじまなかったといえよう。

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