北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第4節 生活・文化の継承と刷新

1 神仏分離

市域の動向
県域の神仏分離は慶応四年(一八六八)から始まった。しかし、個々の社寺については、比叡山坂本の日吉(ひえ)山王社のような社寺、神主らによる過激な毀仏(きぶつ)行為は特に伝えられていない。例えば武蔵一の宮の氷川神社には三社一寺四か院あったが、学頭の観音寺住職は老衰を理由に復飾(ふくしょく)・出仕(しゅっし)を辞退し、隠居寺の満福寺への退去を許され、平穏裡(へいおんり)に準備がすすみ、明治六年(一八七三)十月、明治天皇の参拝前に円満退去し、廃寺となった(『大宮市史資料編二』P五八三)。
市域においても慶応四年(一八六八)三月十七日の神仏分離令をうけて、須賀(すが)社(荒井)別当(べっとう)の正明院恵正の復飾(ふくしょく)願が出され、以後の神勤と神葬祭を合わせて出願している。
先に触れたように同年三月二十八日の神祇(じんぎ)事務局の達示によって権現(ごんげん)や牛頭(ごず)天王などの仏語をもって社名・神名とすることが禁止された。しかし、これらの名称は日本民族の神祇信仰である諸神格と仏教信仰の対象とが融合した本地垂迹(ほんじすいじゃく)説に基づいて生まれたもので、天照大神や八幡大神など、それぞれ本地である大日如来・観世音菩薩の垂迹であるという日本独特の信仰が仏教伝来以来流布(るふ)されてきたのであり、本地の化身(けしん)が権現という仮の姿で現れ、これを神として祀(まつ)ったものであるとされた。神仏分離は人々の間に育(はぐく)まれて来たこのような本地垂迹説を廃して、神を絶対化することであった。
北本市域内には表47(第二章第四節参照)にあるとおり、江戸時代文政年間(『新記巻之百四十八・百四十九・百五十一』)と明治九年(『郡村誌巻之十六・十七』)の神社を対比すると、江戸時代の牛頭(ごず)天王社、弁天社、第六天(だいろくてん)社、聖天(しょうでん)社、道祖神社、山王社、八幡社などの神社が社名改称又は廃絶した。

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