北本市史 通史編 近代

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第1章 近代化の進行と北本

第4節 生活・文化の継承と刷新

3 伝統文化の継承

村の行楽

写真37 御嶽山太々諸費遺払簿

(岡野正家 255)

前の項で「村のたすけあい」ということで経済的な講について触れたので、ここでは、村のたのしみとしての信仰的講についてみてゆくことにする。講は元来宗教(特に仏教)的な祭祀組織から出発したが、近世に入って農業生産力が増大すると次第に行楽的なものに変貌(へんぼう)していった。とくに江戸時代に盛んとなり、明治・大正期まで農村社会で盛んだったのが代参講であった。代参講とは、遠隔地の社寺参詣(さんけい)に講中から選ばれた代参人が、講中各自が出しあった旅費を持ち、講中の代表として参詣することである。代参人は講中からくじ引きや輪番制で選ばれた。
現在のように週休二日制がほぼ大部分の企業や公共団体で実施され、その他夏期休暇をはじめとして多くの休日が保障されている時代とちがい、近代の行楽(娯楽)とはどのようなものであったろうか。都市部はさておき、一般農村では村あるいは部落単位の生活共同体が構成され、その結びつきはきわめて強固なものであったから、行楽も村や家などの共同体を中心とした集団単位で行われた。江戸時代では、代参講や遍路(へんろ)などによる寺社参詣旅行、あるいは俳諧や囲碁などは余暇をもった上層農民に限られ、一般農民の娯楽は、念仏講・庚申(こうしん)講・月待講など信仰と娯楽が重なった行事、あるいは嫁講?若者講などの年齢集団による寄合が大きな比重を占めていた。
市内でみられた代参講の主なものは榛名講(群馬県榛名町)、石尊講(大山講、神奈川県伊勢原市)、御嶽(みたけ)講(東京都青梅市)、宝登山(ほとさん)講(埼玉県長瀞町)、三峰講(埼玉県大滝村)、雷電講(群馬県板倉町)などで、女性の講として正直観音講(埼玉県川島町)、呑竜(どんりゅう)講(群馬県太田市)などで、その他、近年ではほとんど個人的に参るようになった成田講(千葉県成田市)、秋葉講(埼玉県大宮市)などが挙げられる。
岡野家に明治十四年(一八八一)四月の御嶽講の資料がある。それは同年四月八日から十一日までの「御嶽山太々諸費遣払簿」で、四日間の休息代・茶代・寄附・祝金・弁当代・宿泊代などが記録されている。それによると八日には青梅の坂上と厩(うまや)の茶屋で休憩、九日には本社に寄付(壱円)、御師(おし)への小供花代(壱円二〇銭)などについて各個人の出費が明示されている(近代№二五八)。御嶽講はいうまでもなく農耕の神様として信仰を集めた御嶽神社への代参である。市内では宮内・本宿・石戸宿などで行われていた。
石戸宿では三峰山と御嶽山の神様は同じ神様といわれ、三峰講をやっていて代参が一回りすると三峰講を休み、代わりに御嶽講をやった。代参の方法や行程はおよそ次のようであった。代参人は春祈祷(はるぎとう)の時くじで決められる。決められた代参人は講員の家を廻って講費を集め、代参帳と講費をもって代参に行く。昔は徒歩で、列車が通ってからは列車を利用した。御嶽神社に参拝し、宝物館、綾広の滝、七代の滝などを見学し、御師(おし)宅に一泊し、翌朝神前で神官に祝詞(のりと)を奏上してもらい、御札を受けて地元に帰ってから「スナバライ」をし、翌日講員の家にお札を届けて代参の報告をする。
明治三十三年(一九〇〇)の富士講の記録が残されている(写真39)。富士講は浅問講とも呼ばれ富士登拝を目的とし、毎年七月一日の山開きに登山道を埋めた人の列は「蟻の富士詣」といわれて、大いに賑わったとされる。富士山は日本で最高の山であり、その登攀(とうはん)にはかなりの体力と期間を必要とした。そこで十八世紀後半以降、江戸を中心として各所に浅間神社境内に富士塚がつくられた。また、地元の有力者が敷地内に富士塚をつくり頂上に浅間神社を祀(まつ)って、毎年七月一日の山開きに合わせて浅間神社を一般に公開することもあった。

写真38 浅間神社の祭礼

東間

写真39 富士登山同行者連名

(岡野正家 236)

この明治三十三年七月の富士登山同行者連名にみえる先達の岡野牧太郎は、解脱(げだつ)会を開教した岡野聖憲(俗名英蔵)の父である(近代№二六一)。『解脱金剛(げだつこんごう)伝第一巻』P二八には、岡野牧太郎が北本宿の天満天神社の氏子惣代をつとめ、また多聞寺の檀家(だんか)総代としても立派であり、かつ富士講の先達(せんだつ)として土地の人々の信望を集めていたことが記されている。また当時の市域において、山岳信仰のようすや祖霊、歳神、かまど神、作神、蚕神、山の神、氏神、鎮守(ちんじゅ)、産土(うぶすな)、等々の神々が人々の生活の中に根づいていたことが述べられている。
榛名講も市内各地域で行われていた。群馬県の榛名神社に参拝して豊作を祈願する講で、下石戸では代参者四名で四月に行った。この代参は各講のうちで一番早く行き、伊香保温泉で一泊する習(ならわし)になっていた。同三十四年三月の日付で、「榛名神社御神楽料募集名簿」が残っている(近代№二六二)。神楽はいうまでもなく神々を勧請(かんじょう)して行う招魂・鎮魂の神事芸能をいう。神楽は宮中及び伊勢神宮・賀茂神社で行われる御神楽と、それ以外の諸社・民間で奏される里神楽に大別される。この御神楽料募集名簿には北本宿の四六名の人と観音堂が名前を載(の)せている。荒井の北袋では、農家三五軒ほどで榛名講をしている。三月初めに前年のクジに当たった当番のうちの一軒に集まり、本年の当番四名をクジで引いて決める。榛名神社では筒粥(つつがゆ)表もくれ、辻札は村の入口の三か所に立てる。講に出発する時は一種の祭気分であり、煙火を打上げ合図とした。この打上げには鴻巣警察分署に対して予め場所や煙火打上げ員数などを明記した願が出されている。
講は、数戸で行われる場合はともかく、地域の多くの人々が参加する場合にはその運営を円滑にするため講則が決められた。大正二年(一九一三)十一月協定の「中丸村伊勢太々講々則」(近代№二六六)が残っている。これによると目的は同八年二月に伊勢大神宮へ参拝太々神楽を奉奏すること、とある。役員は団長一名、副団長二名、その他幹事を置いた。積立金は大正二年十一月から同七年十一月まで九月二十日と十一月二十日の年二回各吉円五拾銭ずつであった。このお金は銀行で定期預金として利殖し、講の出発から伊勢滞在終了までの諸費の支払いにあてられ、残金は割戻された。積立ては非常の大凶作を除いて続けられ、団員の中途脱退の場合は本人の最終積立までの積立金と利子が割戻された。この中丸村の伊勢太々講には東組?西組?北組から一五一名が参加している。このように講が大きくなると扱う積立金の額も多くなり、お金をめぐる争いや内部の対立もしばしば起こった。
明治四十二年(一九〇九)三月六日付の『埼玉新報』(近代№二六四)は、石戸村伊勢講の紛擾(ふんじょう)を伝えている。それによると、同四十一年に組織された伊勢講は当時二二名であった。講長、別講長、幹事の役員が選ばれ、毎年八月・十二月の両度に五円の掛金を桶川銀行へ積立てていた。この年一月二十二日に伊勢参宮に出立し、横浜で一泊して伊勢での旅館を決めるに至って二派に分かれて対立したが紛擾(ふんじょう)の末抽選(ちゅうせん))で確定した。これに不満な講員の一人が宿館から収賄したのではないかという嫌疑を公言し、これを契機として告訴へと発展した。伊勢講は代参ではなく講全員が積立をして参加したから自然このような問題も派生した。大正二年(一九一三)一月の「伊勢講決議書」(近代№二六五)では、出立の可否については、総会を開いて講親・幹事並びに全講員が出席して、無記名投票によって決定することとし、同三年二月に全講員が万障差繰り円満に参宮すべきことを決めている。万一事故で参宮不能の場合は、総会の認定を経ることとし、この場合の処理は講規定に拠るとした。
以下その他の講についてみてゆく。
石尊講は大山謎ともいわれ相州大山(標高一二五二メートル)にある阿夫利(あふり)神社へ代参をたてて五穀豊穣(ほうじょう)、商売繁昌を祈願することを目的とする。この神社の御祭神は大山祇(オオヤマズミノ)大神、別名を大水上御祖神(オオミズカミノミオヤノカミ)ほか二柱であり、水の神として霊験(れいげん)あらたかとされた。雨をもたらし、農耕を司る霊山として、農家のほか火消し、酒造りなど水に関係する人々から厚い信仰を受けていた。特に農家から日照りの続く年には「雨乞い」に参詣する人が絶えなかったといわれる。また、この神社は出世の神様として男子は一五歳あるいは一七歳になると、初山といって代参の人について参った。石尊講では参詣のほかに大山の神に対する「献灯(けんとう)」の行事がある。これは七月半ば過ぎから八月半ぱまで石尊灯籠(どうろう)(あるいは大山灯籠(とうろう))を立て、各組の当番によって点灯された。
正直観音講は女性の講として、川島町の潮音(ちょうおん)寺へお参りするもので、二月二十一日が縁日で講中の人が参詣に来るのはこの日のみで大賑いとなったといわれる。
これらの講は明治・大正・昭和戦前期まではきわめて広く行われ、特に娯楽のない農村社会において人々の数少ない楽しみの一つとなっていた。

写真40 豊作を祈願する榛名講

高尾

写真41 北中丸氷川神社奉納額

明治29年

写真42 下石戸氷川神社奉納額

下石戸上

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