北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第3節 国民教育体制の確立

1 小学校教育の確立と普及

学級の成立
明治五年に「学制」が頒布され、日本全国に小学校が創設されてから同十年代の末までは、半年を基準とした等級制が採用され、もっぱら試験によって進級および卒業等が決定された。
ところが、同十九年の第一次小学校令の施行規則の一つである「小学校ノ学科及其程度」には、
 第五条 尋常小学校ニ於テハ児童ノ数八十人以下、高等小学校ニ於テハ六十人以下ハ、教員一人ヲ以テ之ヲ教授スルコトヲ得
 第六条 小学校ニ於テ教員二人ヲ置クトキハ二学級ヲ設クヘシ、児童ノ数百二十人ヲ超フルトキハ三学級トナスヘシ
   但教員三人以上ヲ置クトキハ本文ニ準シテ学級ヲ設クヘシ

と定められ、はじめて教員一人当たりの受持ち児童数を基準とした教授組織として「学級」という新しい概念(がいねん)が登場した。そして、それは第二次小学校令の施行規則としての「学級編制等ニ関スル規則」に受けつがれ、決定づけられた。すなわち、「学級」とは「一人ノ本科正教員ノ一教室ニ於テ同時ニ教授スへキ一団ノ児童ヲ指シタルモノ」であって、「従前ノ一年級二年級等ノ如キ等級ヲ云フ」のではない。だから、一学級は一学年の児童で編制することもあれば、数学年の児童を合わせて編制することもあるのであって、児童の数に応じ便宜編制することができる性質のものであった。
要するに、「学級」は、「教育上ノ便」と「経済上ノ便」とをしんしゃくして編制される児童集団であって、それは主として「教授上ノ便宜(べんぎ)」から組織されるものであった。したがって、学級は児童の学習進度や学力程度(grade)を意味した「等級」とは明確に異なっており、時の大木喬任文相もその違いを明確に認識していた。児童を質的側面からとらえるのではなく、もっぱら教授の量的側面においてとらえることを学級編制の基本原理としていた。等級制から学級制への転換は、教育勅語による「臣民教化」の新たな方法的展開として注目すべきものである。
なお、明治二十五年(一八九二)の第二次小学校令の全面実施を契機として、四月一日に始まり翌年三月三十一日に終る学年暦が全国的に採用され、以後慣行化されて今日に至っている。

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