北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第3節 国民教育体制の確立

1 小学校教育の確立と普及

検定教科書から国定教科書へ
小学校の教科書が文部大臣の検定したものに限られたのは、明治十九年(一八八六)の第一次小学校令からであって、同年五月教科用図書検定条例が定められた。しかし、この検定条例は施行わずか一年にして教科用図書検定規則に変えられた。この検定規則によれぱ、教科書の検定は教科用として弊害(へいがい)のないことを証明するもので、内容上の優劣は問わないとした。
ところが、同二十五年三月、教科用図書検定規則が改定され、小学校教科書は「小学校令及教則ノ旨趣(ママ)ニ合致シ教科用ニ適スルコトヲ認定スルモノ」(第一条)となった。これは検定基準の重大な変化を示すものであって、教科書に対する国家統制の強化を意味するものであった。明治二十五年といえば、第二次小学校令が全面実施され、大日本帝国憲法・教育勅語体制の国民教育が本格的に開始された年である。この機に臨んで、小学校教科書について特に詳しい規定を設けたり、検定を強化したのは、国民思想の統一を図ろうとしたからである。教科書の採択は府県単位とし、採択(さいたく)図書の四か年以内での変更は認められなかった。
ところで、検定期(明治十九年~三十六年)における小学校用教科書は、内容上から三つの時期に分けることができる。第一期は明治十九年の第一次小学校令及び「小学校ノ学科及其程度」に準拠(じゅんきょ)した時期である。第二期は同二十三年の第二次小学校令及び翌年の小学校教則大綱に準拠した時期である。第三期は同三十三年の第三次小学校令及び同施行規則に準拠した時期であって、棒引きかな使いや漢字制限が教科書の内容に反映した時期である。
先に指摘したように、教科書の検定制は第一次小学校令において初めて法制化されたわけであるが、文部省検定済教科書が発行され、その使用が開始されたのは明治二十年代後半期であって、本県の場合明治二十九年度からであった。埼玉県で採択された尋常科用書(生徒用)は、修身一種、読本一種、習字本一種の計三種であった。すなわち修身科は渡辺政吉の『実験日本修身書』(全八冊・木版刷り和装本)、読本は今泉定介・須永和三郎の『尋常小学読書教本』(全八冊・木版刷り和装本)、習字本は埼玉私立教育会の『尋常小学習字本』であった。これらの教科書が埼玉県下の尋常小学校で使用されたわけであるが、明治三十年代に入るとヘルバルト派の教育思想の影響を受けた検定教科書が編集・発行された。その代表的なものは修身科の人物伝記主義と呼ばれる教科書である。この種の教科書は、明治三十三年(一九〇〇)から三十四年にかけて多数出版され、国定教科書に切り替えられるまで全国的に使用された。本県で採択され各町村で使用された普及社の尋常小学校用の『新編修身教典』は、人物伝記主義教科書の代表的なものである。本書は木版刷り和装本で全四冊であるから、各学年一冊ずつである。読本の場合は修身書ほどの顕著(けんちょ)な変化はみられないが、旧読本を修正して児童の心理や興味あるいは学習の程度に合致させ、教材の児童化・平易化を促した。文学性を豊かにし、内容が平易化して児童の興味に合致させようとする教材編成の原理は、ヘルバルト派の教育思想と無関係ではない。

写真64 尋常小学習字本

(小林恒一家 649)

写真65 修身叢語

(柳井豊一家)

なお、明治三十三年の小学校制度の改定によって、従来の読書・作文・習字は統合されて「国語」という教科となった。その際、埼玉県が採択した尋常小学校用の国語教科書は、普及社の『国語読本』であった。ちなみに算術書は、集英社の『小学算術』であった。
しかし、明治三十五年(一九〇二)十二月に発生した教科書事件を一大契機(けいき)として、文部省は小学校の教科書を検定制から国定制に切り換えた。すなわち、同三十六年四月、小学校令を一部改正して「小学校ノ教科用図書ハ文部省ニ於テ著作権ヲ有スルモノタルヘシ」と規定し、関係法令を整えて翌三十七年度よりこれを実施した。といっても、すベての教科の教科書を国定にしたのではなく、修身・日本歴史・地理・国語読本等であって、他は文部大臣の権限に委ねることとした。が、すぐ施行規則を改正し、書き方手本と算術と図画を加えた。国定初年度の明治三十七年度については算術と図画を除く修身・国語読本・書き方手本・日本歴史・地理の四教科五種類でスタートした。算術と図画は同三十八年度から加わった。最初の国定教科書は次のとおりである。
 修 身  尋常小学修身書児童用三冊(第二学年以上各一冊)
             教師用四冊(各学年一冊)
      高等小学修身書児童用・教師用各四冊(各学年一冊)
      尋常小学修身掛図 一綴(第一学年用)
 国 語  尋常小学読本 八冊(各学年二冊)
      尋常小学書キ方手本 七冊(第一学年後期用一冊・第二学年以上各二冊)
      高等小学読本 八冊(各学年二冊)
      高等小学書キ方手本 八冊(各学年二冊)
 算 術  尋常小学算術書 教師用四冊(児童用なし)
      高等小学算術書 児童用・教師用各四冊
 日本歴史 小学日本歴史 四冊(高等料各学年一冊)
 地 理  小学地理 四冊(高等科各学年一冊)
 図 画  尋常小学毛筆画手本 三冊(第二学年以上各一冊)
      高等小学毛筆画手本 四冊(各学年一冊)
      尋常小学鉛筆画手本 三冊(第二学年以上各一冊)
      高等小学鉛筆画手本 四冊(各学年一冊)

このような最初の国定教科書(第一期国定本)は、義務教育年限の延長にともなう小学校施行規則の改正によって改訂され、それが第二期の国定教科書として明治四十三年度より使用された。このたびの改訂では、第一期本への各方面の批判と実地の経験とを勘案(かんあん)して行われたが、改訂の時期が日露戦争後の国家主義の隆盛期であり、日本資本主義の発達による社会・労働問題発生の時期でもあったので、時勢を敏感に反映していた。明治三十三年以来使用してきた字音かなー棒引きがなや、制限漢字の規定は撤廃された。国語読本は「ハタ タコ コマ」で始まる読本となった。修身・算術の教科書も改訂された。とくに修身教科書は、日露戦争後における国家主義の政策動向を反映して、家族国家観に基づく忠孝一本の国民道徳が強調された。
日本歴史は従来高等小学校の教科目であったが、義務教育年限の延長で尋常小学校の教科の一つに加えられ、『尋常小学日本歴史』が編集され、明治四十三年度から使用された。ところが、翌四十四年にいわゆる南北朝問題が発生し、文部省は南朝正統論に立って教科書の修正を行い、同年十月に『尋常小学日本歴史』巻一を、翌月巻二を発行した。この時から「南北朝」は「吉野の朝廷」となり、その内容を書き改めた。この修正によって南北朝正閏(せいじゅん)問題についての歴史教育上の見方が定まり、以後、南朝正統論が公的に採用された。なお、この時期から理科も国定教科書となった。

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