北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第1節 石戸村・中丸村の成立と村政の展開

1 町村制の施行と石戸村・中丸村の誕生

石戸村と中丸村の成立
北本市域では、町村制に伴う町村合併によって石戸村と中丸村の二村が成立した。石戸村は、表27にあるように県の諮問(しもん)どおり、明治二十一年(一八八八)上日出谷村連合のうち下石戸上村・下石戸下村、原馬室村連合のうち高尾村・荒井村・石戸宿村の五か村をもって合併し、総戸数五八九戸、人口三九七九人の大規模村となった。但し、合併の経緯(けいい)に関する資料は乏しい。特に合併に関しては異論がなかったようだが、新村の名称をめぐっては、多少の波乱があった。すなわち高尾村の住民一同が連署(れんしょ)して連合戸長役場を通じ郡役所に意見書を提出した。また、同年九月二十九日、惣代人の新井秀五郎、金子広吉、田島鐘三郎の三名がこの意見に同調し、北足立郡長小泉寛則(こいずみひろのり)に上申書(写真52参照)を提出した。それによると、
表27 明治二十一年北足立郡独立町村編成表
新町村旧 町 村役場位置戸 数人 口反 別地 価
石戸村下石戸上村  戸
五八九
   人
三、九七九
九六四町七畝三一歩拾四万三百六十四円二十三銭五厘
 下石戸上村八五五一ニ百七八町三反六畝二二歩弐万四千七百三十五円十一銭七厘
 下石戸下村八三五三二弍百三十一町一反二畝四歩弐万七千弐十円十ー銭八厘
 高 尾 村一六三一、一五三弐百五十六町一反八畝四歩四万弐千七百七十七円十五銭ー厘
 荒 井 村一〇五八三九百六十一町二反五畝七歩弐万六千三百五十八円九十一銭三厘
 石戸宿村一四九九四三百三十八町五畝四歩壱万九千四百七十二円九十三銭六厘
新 町 村旧 町 村戸 数人 口役 場 所 在 地 
中 丸 村東 間 村五七戸 男 一四七人
女 一七四
勝林寺堂宇
 深 井 村六三男 一六五
女 一七八
村の中央民舎を使用す
 北本宿村四九男 一四八
女 一三五
戸長宅舎を使用ス
 山 中 村一六男  四二
女  四七
 宮 内 村六九男 一六七
女 一七七
戸長宅舎を使用す
 古市場村二九男  八二
女  七七
 常光別所村三九男  九一
女 一一六
本村及別所古市場、花ノ木と聯合す常光別所の三橋喜三郎宅ナラン
 花 ノ 木一四男  三七
女  三九
 北 中 丸

(『北本宿村の沿革』P一九より引用)


写真52 新町村名称ノ義ニ付願

(北本宿村 692)

「今般新村の名称を石戸村とするに付き惣代人に可否を御諮問になったようだが、本村の惣代人はこれに同意したのではなく答申してあるとおりで、これ(石戸村の名称)に賛成したのではなく、近隣各村を見るに殆んど戸数の多い村の名称か、或いは又物産等に関係ある町村名を以(もっ)て新村の名称とすることを御諮問(しもん)になっている。然(しか)るに我が合併村の場合、髙尾村は著名なる物産桐材及び桐簞笥(たんす)を東京府下は勿論(もちろん)近在町村に輸出して居る実情にて、これが営業上の不利、不便となっている。又人口戸数、地価反別に至るまで新町村区域最大のものである。よって近隣なみに高尾村の名称を冠(かん)するよう上申する」(明治二十ー年九月二十九日付の郡長宛上申書の概略)

(北本宿村六九二)


という内容のものであった。これに対する郡当局の見解は、合併区域のうち石戸宿村・下石戸下村・下石戸上村の三か村を合すれば大村となること、また、この地は旧来(きゅうらい)「石戸領」として名が世に知られていることなどをあげ、新村の名称を「石戸村」とすることが妥当(だとう)であると回答した。
これに対して高尾村は次のような根拠をあげて再度上申する。合併する五か村中、高尾村が最大であること。石戸領の名称は有名無実で石戸村が数か村を領有した証拠はなく、これは旧体制時の旗本牧野(まきの)氏の領地という意味であること。北足立・比企(ひき)・横見(よこみ)郡の三郡で製造される指物(さしもの)には皆(みな)高尾村の名産品を示す高尾木地の名称を用いており、管内で最も著名なる名称であることなどをあげたのであるが、結局は成功せず、郡当局に押し切られてしまった(写真52)。
このような経緯(けいい)を経て成立した石戸村は、明治二十一年(八一八八)六月、大字下石戸上真福寺を仮役場として執務(しつむ)が開始された。やがて同年七月には、旧上日出谷村連合役場庁舎の払い下げを受け、新たに村内中央部の大字下石戸上一五七五番地に移築し、新庁舎とした。なお、ここに「大字(おおあざ)」という新しい地名区画が使用されているが、これは町村合併の結果、新村に吸収された旧村を大字名として残す方法として用いられたものである。初代村長は表28にあるように元荒井村戸長矢部長作(やべちょうさく)が、翌二十二年五月五日の選挙によって当選し、同年五月十七日に就任した。矢部氏は二期六年間在職した。助役は下石戸下の大沢麒三郎(きさぶろう)が選出され、同様に二期在職した。合併した五か村のそれぞれの資力は表27に示すが、合併時に新村の名称を主張した高尾村が戸数・人ロ・地価いずれも最大であることがわかる。
表28 石戸村歴代村長・助役・収入役
石戸村歴代村長
順位氏名在 職 期 間年齢住所備考
第一代矢部長作明治二十二年五月十七日
明治二十六年五月十六日
安正(政カ)三年十月五日石戸村大字荒井二二番地
第二代矢 部 長 作明治二十六年五月二十三日
明治二十八年五月二十三日
第三代栗林安兵衛明治二十八年六月十一日
明治二十九年四月三日
茄(嘉力)永六年四月十日鴻巣町大字上生出塚三二番地村長職務代理
第 四 代田島和助明治三十年五月十日
明治三十年十二月十日
安政五年十二月二十六日石戸村大字高尾六二番地
第 五 代大沢麒三郎明治三十年十二月十六日
明治三十四年十二月十五日
弘安四年九月十五日石戸村大字下石戸下四一番地
第六代吉田時三郎明治三十四年十二月十六日
明治三十八年十二月十五日
明治三年七月三日石戸村大字下石戸上六番地
第七代明治三十八年十二月十六日
明治四十年八月十九日
第 八 代明治四十年十月二十二日
明治四十四年十月二十一日
第 九 代明治四十四年十月二十五日
大正四年十月二十四日
第 十 代大正四年十月二十七日
大正八年十月二十六日
第十一代今井虎七大正八年十一月十八日
大正十二年十一月十七日
慶応二年 九月十九日石戸村大字高尾ニ一六番地
第十二代田島長蔵大正十二年十一月三十日
昭和二年十一月二十九日
明治十四年 四月八日石戸村大字高尾一五三番地
第十三代昭和二年十二月二日
昭和六年十二月一日
第十四代昭和六年十二月十日
昭和八年十二月十日
第十五代矢部次郎昭和八年十二月十三日
昭和十二年十二月十二日
明治十九年十月二十二日石戸村大字荒井一二四六番地
第十六代昭和十二年十二月十三日
昭和十五年一月三十一日
第十七代大沢慶廣昭和十五年三月十五日
昭和十八年二月十日
明治二十年十二月八日石戸村大字下石戸下六六六番地
石戸村歴代助役
氏 名在 職 期 間年 齢住 所備 考
大沢麒三郎明治二十二年五月十七日
明治二十六年五月十六日
弘化四年九月十五日石戸村大字下石戸下四一番地
明治二十六年五月二十三日
明治二十八年五月二十三日
深井久三郎明治二十九年四月二日
明治三十年五月十八日
安政二年八月十九日石戸村大字下石戸上五七番地
榎本 基治明治二十九年四月十一日
明治三十年六月十八日
天保十年六月三日大石村大字領家
新井啓之助明治三十年五月二十四日
明治三十一年二月二十一日
慶応二年九月二十八日石戸村大字高尾四八番地
新井勇左エ門明治三十年十二月十六日
明治三十四年十二月十五日
嘉永二年六月十二日石戸村大字高尾六七番地
矢部喜十郎明治三十一年十二月十日
明治三十二年十月二十四日
慶応二年五月二十九日石戸村大字荒井二一番地
新井勇左エ門明治三十四年十二月十六日
明治三十八年十二月十五日
嘉永二年六月十二日石戸村大字高尾六四(ママ)番地
明治三十八年十二月十六日
明治四十二年十二月十五日
明治四十二年十二月二十二日
大正二年十二月二十一日
大正二年十二月二十六日
大正六年十二月二十六日
大正六年十二月二十七日
大正七年十二月五日
諏訪芳太郎大正八年一月十一日
大正十二年一月十日
明治十年一月二日石戸村大字下石戸上一三九六番地
大正十二年一月十二日
大正十三年九月六日
大沢慶廣大正十三年九月二十九日
昭和三年九月二十八日
明治二十二年十二月八日石戸村大字下石戸下六六六番地
昭和三年十月二日
昭和七年十月一日
昭和七年十月四日
昭和十一年二月二十九日
新井大一昭和十一年三月四日
昭和十五年三月三日
明治三十五年三月二日石戸村大字高尾三一〇三番地
昭和十五年三月四日
昭和十八年二月十日
石戸村歴代収入役
氏 名在 職 期 間年 齢住 所備 考
深井久三郎明治二十二年六月九日
明治二十六年六月八日
安政二年八月十九日石戸村大字下石戸上五七番地
明治二十六年六月十五日
明治二十八年六月二十三日
大沢麒三郎明治二十八年六月二十三日
明治三十年二月二十五日
弘化四年九月十四日石戸村大字下石戸下四一番地
井野辨三郎明治三十年五月四日
明治三十年五月二十一日
文久元年十月二日石戸村大字石戸宿六〇番地
新井啓之助明治三十年六月七日
明治三十年十二月十日
慶応二年九月二十八日石戸村大字高尾四八番地
横田長七明治三十年十二月二十二日
明治三十一年十二月十日
明治元年六月二十三日石戸村大字石戸宿四三番地
大畑熊吉明治三十二年十一月四日
明治三十五年三月十二日
明治二年 十二月二十七日石戸村大字高尾一八番地
田 島 長 蔵明治三十五年五月二日
明治三十九年四月二十五日
明治十四年四月八日石戸村大字高尾一五三番地
吉田時三郎明治三十九年四月二十五日
明治四十年八月十九日
明治三年七月三日石戸村大字下石戸上六番地村長事務兼掌
新 井 勇 左 ェ 門明治四十年八月二十一日
明治四十二年十二月十六日
嘉永二年八月十二日石戸村大字高尾二七番地助役事務兼掌
明治四十二年十二月十六日 明治四十四年三月十三日
大沢慶廣明治四十四年三月十三日
大正四年三月十三日
明治二十一年十二月八日石戸村大字下石戸下四一番地
大正四年四月十二日
大正八年四月十一日
加藤八重次郎大正八年八月七日
大正十二年八月六日
明治十一年四月二十日石戸村大字荒井八四五番地
諏訪芳太郎大正十二年八月七日
大正十三年二月十八日
明治十年一月二日石戸村大字下石戸上一三九六番地助役事務兼掌
峰尾關保大正十三年二月十八日
昭和三年二月十七日
明治十九年十一月三十日石戸村大字石戸宿一二八一番地
昭和三年二月十八日
昭和七年二月十七日
石井堅治昭和七年二月十八日
昭和十一年二月十七日
明治三十二年十月一日石戸村大字下石戸上一一九五番地
昭和十一年二月二十二日
昭和十三年八月十日
新井秀雄昭和十三年八月十日
昭和十七年八月九日
明治三十六年一月十日石戸村大字高尾八一五番地
昭和十七年八月十日
昭和十八年二月十日

(『北本宿村の沿革』P二一より引用)


一方、中丸村は旧東間村連合の山中村・花ノ木村・本宿村・常光別所村・古市場村・宮内村・深井村・東間村・北中丸村の九か村が合併し成立した(近代No.十八)。当初宮内村と深井村は、地理的条件と水利等の関係から、上谷村・西中曽根村(現鴻巣市)の二か村との合併を希望し、明治二十一年(一八八八)九月三日宮内村惣代三人及び連合会議員三人の連署で郡長に上申書を提出した。これに対して、東間村連合のうち先の宮内村と深井村を除く七か村の連合会議員及び惣代人が、貧弱(ひんじゃく)の合併村から先の二か村を分離すると合併村の独立を維持することが困難であるという意味の上申書を県知事吉田清英(きよひで)に提出した。その後、同年十一月二十四日宮内村・上谷村・西中曽根村・深井村の四村側も村会議員全員の署名書を持って県知事に上申し、新村組成(そせい)の請願申請を行うなど、あくまで宮内村・深井村は郡役所試案に反対する旨を直接県に訴えた。その上申には、
宮内、深井、上谷(かみや)、西中曽根(にしなかそね)村ノ四ヶ村人民相(あい)交通シ以テ人情ヲ厚シ恰(あたか)モ一村ノ如キ親睦ヲナシ曾(かっ)テ各村々卜ノ間ニ争論ヲ惹起(じゃっき)シタルコトナキ、之カ故ニ一村トナストキハ、自治体ノ基礎ヲ鞏固(きょうこ)ニシ、将来ノ平穏(へいおん)幸福ヲ得テ其本務ヲ全(まっと)フスルニ難(かた)カラサル義卜思料仕候(後略)

(『鴻巣市史 近現代編』P一六一)


とあり、合併の理由として日ごろから四か村の交流の深いことをあげている。しかし、実際は、四か村とも相互に地域内に飛地(とびち)を持ち、「治水上ニ於テハ、四ヶ村共笠原堰(かさはらぜき)・宮地堰(みやじぜき)ヨリ用水ヲ引用シ、悪水路共一線ニシテ用水卜云ヒ悪水卜云ヒ、総テ共ニスルニ於テハ甚(はなは)タ利益有之」とあるように、水利上の権利義務に影響ありとして郡役所の合併案に反対した。飛地については、宮内・深井両村の飛地組替方についての郡長宛答申(近代No.三十六)が注目されるが、宮地村は全村の総地価のほとんど半ばが上谷・西中曽根に飛地としてあり、深井村も田段別の総地価の概略がこの地にあるとして、郡役所の進めようとした飛地組替は大変なわずらわしいので、四か村の合併による新村造成の方が一挙両得の得策(とくさく)であるとし、あくまで四か村合併を主張した。
しかし、宮内村と深井村の二村独立計画は認められず、飛地組替を行うこととして、郡役所試案の九か村合併が決定した。このように町村制施行に伴う町村合併は必ずしも旧町村の意向通りに行われたわけではなかった。合併後の新村名は、九か村のうち区域の最大の北中丸村から名称をとり、中丸村と命名された。初代村長は旧宮内村の長島源次郎が就任し、二期八年間在職した。助役は旧北本宿村の関根喜右衛門が選出され、一期四年在職し、収入役は助役兼務で旧北中丸村の新島伊助が就任し、二期八年在職した。歴代村長及び助役、収入役は表30のとおりである。

表29 新町村編成区域表

(『市史近代』P四五より引用)

表30 中丸村歴代村長・助役・収入役

(『北本宿村の沿革』P三六より引用)

図7 北本市域の地方行政区域の変還

(『北本宿村の沿革』P5より引用)

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