北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第3節 国民教育体制の確立

2 青年補習教育の振興

実業補習学校の設置と青年補習教育
実業補習学校という学校が制度上に登場したのは明治二十三年(一八九〇)の第二次小学校令が最初であって、そこには「徒弟学校及実業補習学校モ亦(また)小学校ノ種類トス」(第二条)と定められた。これによって明らかなように、実業補習学校は最初は実業学校の一種ではなく、小学校の種類として規定された。そして、その教科目や修業年限は文部大臣が定めるようになっていたが、すぐには定められず、実際には法制上の名目だけの学校にすぎなかった。それに実質的・具体的内容を与えたのは、同二十六年十一月の実業補習学校規程であった。この規程の制定に努力したのは、第七代文相井上毅(こわし)であった。
ところで、この実業補習学校は「諸般ノ実業ニ従事セントスル児童ニ、小学教育ノ補習卜同時ニ簡易ナル方法ヲ以テ其ノ職業ニ要スル知識技能ヲ授(さず)」(第一条)けることを目的とし、入学の程度は原則として尋常小学校卒業程度とした。修業年限は三か年以内で、尋常小学校に付設することができるとした。また、日曜日・夜間あるいは季節を限って便宜(べんぎ)教授することができ、教員は「小学校教員又ハ其ノ資格アルモノ、又ハ相当ノ普通教育ヲ受ケ実業ノ知識又ハ経歴ヲ有シ、地方長官ノ許可ヲ得タルモノ」(第一一条)とした。
このような規定にもとづいて実業補習学校の設置が進められたが、日清戦争後の産業の発展はますます実業教育の振興を要請した。そこで、文部省は明治三十二年(一八九九)二月実業教育全般にわたる基本規程として実業学校令を公布した。この実業学校令によって、実業補習学校は実業学校の一種となった。しかし、その大部分は町村の小学校に付設され、教員には小学校教員を充当(じゅうとう)したので、名実ともにそれが実業学校的な体質を備えたのは、正規の実業学校に付設された実業補習学校のみであった。
この実業学校令の公布に対応して、文部省は明治三十五年一月、二十六年制定の実業補習学校規程を改正した。この改正によって教科目の編成がより自由となり、修業年限・教授時数も適宜(てきぎ)定めることができるなど設置条件を緩和(かんわ)したので、実業補習学校は急激に増加した。たしかに、実業補習学校の増加は、設置条件の緩和、日清戦争後の産業の発展等がその背景をなしていたが、より根本的には明治三十年代以降における義務教育の普及であった。実業補習学校は、本来「実業ノ教科ヲ主脳トシ、併セテ普通教育ノ補習ヲ成」すことを目的とした。しかし、それが実際に設けられた地域をみると、都会や産業地よりもむしろ上級学校の少ない地方に多く設けられた。ということは、実業補習学校がその趣旨とは逆に、義務教育の修了者に小学校教育の補習、つまりポスト義務教育機関としての性格を強めて設置されたことを意味している。実業補習学校を産業別にみると、農業補習学校が圧倒的に多い。
表46 教授時間割表
種別
科目
毎週教授時数本   科毎週教授時数別   科
修 身 男2 女2 道徳の要領 男2 同 左
国 語 62読方、綴方 8読み方、綴方、書き方
算 術 42四則、歩合算、求積(珠算) 6加減乗除(珠算)
農 業 62農業大意 2同 左
裁 縫28普通の裁ち方、縫方
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(『中丸小学校80年史』P74より引用)

市域に設けられた実業補習学校には中丸実業補習学校がある。本校は明治四十四年九月二十九日に設置認可され、十月に宮倉校長以下の教職員が任命され、そして十二月七日、第一回の始業式を行った。中丸実業補習学校学則によれば、実業に関する知識・技術を授(さず)け、兼ねて普通教育の補習をすることを目的とし、本科(二年)と別科が置かれている。授業は毎年十二月一日から翌年三月末までとし、授業時間は男子は午後三時から、女子は午前九時から午後四時までとした。教科目・程度及び授業時数は表46のとおりである。この表をみると、男子は国語と農業に三分の二の時間を、女子は裁縫に八割の時間をあてている。女子にとっての実業補習学校は、まさしく短期裁縫学校ともいうべきものであった。これは中丸実業補習学校にみる独自性というより、当時の一般的傾向であった。

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