北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第3節 国民教育体制の確立

3 教育諸団体の活動

青年会の活動
明治三十年代の中ごろから四十年代前半にかけて、言葉を換(か)えれば日露戦争前後の時期に、青年団体が相次いで結成された。それは各町村を単位としたものから大字・小字を単位としたものまでつくられた。この当時の青年団体は概括(がいかつ)して青年会と称した。市域の村々にも青年会と称する青年団体が結成された。石戸村青年会と中丸村青年会である。両者のうち後者の中丸村青年会(明治四十年四月創設)については、資料が乏しく「会則」程度しかわからないので、以下石戸村青年会を中心に述べることとする。
『石戸村郷土誌』によると、石戸村に青年会が組織されたのは明治三十九年二月十五日であった。その経緯(けいい)について同誌は「第一回ノ夜学会終局ヲ告ゲ修了証書授与ノ際、本村ノ美果(びか)ヲ修メ益々向上発展セシメンニハ須(すべから)ク其中堅タル青年一致協力ニ俟(ま)タサルへカラス、而(しか)シテ之カ意志ヲ疎通(そつう)シ融和(ゆうわ)ヲ計り共同ヲ以テ事ニ当ル」ためであると述べている。そして青年会の目的として、一、和親協同、二、風俗矯正(きょうせい)三、知識の研磨、四、本村将来の発展の四項をあげている。中でも風俗矯正(きょうせい)と知識の研磨は、当時の青年会活動の二大目標ともいうべきものであって、その目標実現に直接関わるものが青年夜学会であり、文庫の設置であり、壮丁教育であった。そのほか実業講習、講談会、修学旅行、農作物試作、農業実地視察、公共事業、娯楽の奨励等多くの事業を計画している。こうした事業を遂行するため夜学部、講談部、会報部、図書部、囲碁部、撃剣部、華道部、試作部の八部を置き、さらに一三区域に分け、各々支会を組織し自治的に事業を行わせた。大正三年(一九一四)一月十七日の『埼玉新報』に掲載された「石戸村青年会の活動」には「北足立郡石戸村青年会は由来各字二十七の支会を以て組織せられ近時大いに健実なる発逹をなしつゝある」と報じられている。このように多くの部と支会をもって活動した石戸村青年会は、明治四十二年(ー九〇九)十一月二十日の『国民新聞』に「県下優良青年団」の一っとして紹介された(近代NO.一九四)。そこには会員数、夜学会、壮丁教育、講話会等々の実績が報告されている。当時、各青年会はそれぞれ独自の活動を展開したが、その反面時勢や地域的特性を反映して、いくつかの共通点を見出すことができる。青年夜学会・講話会の開催、農事講習及び農業試作等はその好例である。すべての青年会に共通してはいないが、時勢を反映した活動として幻灯(げんとう)会と文庫の設置がある。資料に乏しく中丸村青年会の活動の様子も詳(つまび)らかではないが、近隣の青年会と共通の活動をしたと考えてよいだろう。

写真72 中丸村青年会

(松村晴夫家提供)

写真73 石戸村郷土誌

(石戸小学校蔵)

ところで、青年会という青年の組織が、日露戦争前後の時期になぜ全国的に設置されたのだろうか。それは要するに、内務省地方局を舞台に推進された地方改良運動の一翼をなすものであったからである。この運動は、内務省が日露戦争、とくにその「戦後経営」の重要な方策として推進したものであって、いうならば、従来行ってきた上からの行政監督の強化による町村自治の振興を、今度は下から、すなわち町村住民の側から自発的に呼びおこし、彼らの「愛村心」に訴えて、「村ぐるみ」の社会教化運動を通して、町村自治の振興を図ろうとする運動であった。具体的には地方改良の模範例の蒐集(しゅうしゅう)・紹介、地方改良事業推進優良団体及び個人の表彰、地方改良講習会の開催等を三本柱として推進したが、内務省がこうした運動を国民運動として全国的に盛り上げようとしたのは、逼迫(ひっぱく)した町村財政を建て直し、町村に自治体としての活力を与えることが内政上の一大急務であったからである。それも従来のように上からの指導監督というルートではなく、下からの自主的・自発的な「村ぐるみ運動」に期待した。内務省の地方改良運動の三本柱は、いずれも下からの自発的改良運動を啓発し、運動の環(わ)をさらに大きくするための具体的な施策であった。内務省はこうした地方改良運動の担(にな)い手として靑年の組織に着目し、青年会を社会教化団体として育成する方策をとった。
よく知られるように、日清・日露の二大戦争に勝利して、日本の資本主義は飛躍的に発逹した。しかし、その反面に労働問題、農業問題、社会問題などを発生させ、また社会主義思想を抬頭(たいとう)させた。こうした社会情勢を背景にして、明治四十一年(一九〇八)十月十三日に戊申(ぼしん)詔書が発布され、「宜(よろ)シク上下心ヲ一ニシ忠実業ニ服シ、勤倹産ヲ治メ惟(こ)レ信惟レ義、醇厚(じゅんこう)俗ヲ成シ華ヲ去り実ニ就(つ)キ、荒怠(こうたい)相誡(いまし)メ自彊(じきょう)息(や)マサルヘシ」と諭(さと)した。この「詔書」は、以後地方改良運動の指針となり、運動をさらに盛り上げる重要な契機となった。とくに、平田東助内相は全国の知事に対して「聖旨」の眷々服膺(けんけんふくよう)と実行を訴え、勤倹貯蓄、風紀改善、親睦協和の気風を起こすことを地方行政の中心課題にするよう指示した。このように内務省は、地方行政組織を通してその末端(まったん)にまで浸透する強力な国民教化(町村民教育=自治民育)に重要な役割を担(にな)った。内務省より若干(じゃっかん)遅れて、文部省も青年団体の指導に着手した。かくして青年会という名の青年団体は、日露戦争後、内務・文部両省の肝(きも)いりで内務行政のネット・ワークを通して全国各町村に設けられた。石戸・中丸両村の青年会も、まさしくそうした背景の下に誕生したものであった。そして、小学校の校長及び教員は青年会活動における指導者として動員された。とくに青年会の重要な事業としての青年夜学会の開催には、小学校教員(校長を含む)はその指導者として最も身近な存在であった。小学校長を会長とする青年団体が各地に現われたのは、学校教師に社会教化の職務をも分担させたことを事実をもって示している。なお、地方改良運動の一翼を担(にな)った青年会活動は、大正五年度までであって、翌六年度からは、装(よそお)いも新たに青年団として発足することとなった。

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