北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第3節 国民教育体制の確立

3 教育諸団体の活動

石戸村教育会とその活動
六年制義務教育が発足した翌年(明治四十二年)の二月二十日に、石戸村教育会が誕生した。その経緯(けいい)について『石戸村郷土誌』は、「明治四十一年九月上旬、村長吉田時三郎氏小学校長及ヒ有志卜謀(はか)り会員ノ勧誘ニ着手ス、即旧第一、第二、第三、小学校ノ職員挙(あげ)テ之ニ当り、同月二十日ヨリ部署ヲ定メ有志ヲ訪問シ、本会設立ノ主旨ヲ述(の)へ入会ヲ求ムルヤ、忽(たちま)チニシテ二百有余名ノ賛成ヲ得タリ」と述(の)べている。
この教育会は北足立郡教育会の下部組織であって、事務所は石戸尋常高等小学校内に置かれた。本会の会員は本村役場吏員、村会議員、学校職員、学務委員、区長及びその他有志者であって、会長は村長の吉田時三郎であった。
本会の目的は、「石戸村教育ノ改善発展ヲ謀(はか)ル」ことであって、その事業は、男子に対しては青年補習教育、壮丁教育、夜学会等であり、女子に対しては家庭経済、看護育児等であった。さらに「一般的施設」として、巡回講話・教育品展覧会、図書閲覧所、貧窮(ひんきゅう)児童への学用品の給与もしくは貸与等をあげている。このように村教育会は、多彩な事業を通して教育の改善発展を期したのであるが、なかでも男子に対する青年夜学会の開設は、目的に照らしてもとくに重要な事業であったといえる。それについてはすでに述(の)べたので、ここでは主として女子に対する補習教育としての裁縫専修科を取り上げることとする。
次頁に明治四十年代に撮影した二葉(よう)の写真を紹介した。上は中丸尋常小学校児童、下は石戸尋常小学校児童の写真である。この二葉(よう)の写真は、いずれも卒業記念写真であるが、この写真から児童の服装に着目すれば、両校とも児童は全員和服(着物)であって、洋服を着た者は一人もいない。新井大一は「小学校時代の思い出」の中で「明治末期といえば、欧米文化の輸入された時期ですが、まだまだ一般化されるまでにはいかなかったようです。生徒の服装にしても、洋服を着てくる者はひとりもなく、紺絣(こんがすり)の着物を着てくるものは、村でも屈指(くっし)の資産家の子どもぐらいで、大部分は縞の着物に前かけをかけ、下駄か草履(ぞうり)で通ったものです。」(『石戸小学校六〇年史』P一二一)と語っている。石戸の峯尾金之助も同様の回想を寄せている。大人も教師や警察官等特定の職業を除けば、一般には和服の時代であった。つまり、大人も子どもも着物の時代であったから、女子にとって裁縫は最も大切な実用的教養とされたのである。

写真74 宮倉校長を中心にしての記念写真

(明治41年『中丸小学校80年史』P54より引用)

写真75 尋常科卒業生 明治43年度

(『石戸小学校80年史』P76より引用)

こうした時勢や女性観を背景に、明治四十三年(一九一〇)二月、石戸村教育会によって裁縫専修科が開設された。『石戸村郷土誌』に収められた「裁縫専修科規程」によれば、本科は簡便な方法によって「専(もっぱ)ラ女子ニ裁縫ニ関スル智織(ママ)技能ヲ授(さず)ケ兼テ女徳ヲ涵養シ併(あわせ)テ在来女子ノ裁縫伝習ニ伴(ともな)フ弊風(へいふう)ヲ矯正(きょうせい)スル」(第一条)ことを目的とし、修業期間は「修業者ノ志望ニ任シ制限セザルヲ旨トスレドモ凡(およ)ソ四ケ年トシ毎年一月ヨリ三月マテ教授」(第二条)することとした。教科は修身と裁縫の二科目であって、入学資格として年齢一二歳以上の女子で義務教育の修了者とした。授業時間は毎日午前九時から午後四時までで、一週の授業時数は三六時間以内とされた。この規程に付された「裁縫専修科成績状況一覧」には、実施年度、期間、人員、出席歩合、教授者が表示されているが、この科に学んだ女子は明治四十二~三年度は二三名、四十四年度は半減して一一名となった。
なお、石戸村教育会の事業として、ここで若干(じゃっかん)触れておきたいのは巡回講話会である。この会は、「戊申(ぼしん)詔書ノ御趣意ニ基キ石戸村治ノ向上発展ヲ期スル」ことを目的として、明治四十二年十一月十一日に設けられたもので、石戸村の役場員、学校職員及び有志者をもって組織した。講話開催の際には、区長は毎戸一人以上聴講するよう勧誘(かんゆう)することが要請された。講話の会場は各区において定めることになっていたが、その区は細かく一九区に分けられた。そして毎区へ出張講話が行われた。

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