北本市史 通史編 近代

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第2章 地方体制の確立と地域社会

第1節 石戸村・中丸村の成立と村政の展開

1 町村制の施行と石戸村・中丸村の誕生

合併町村の運営
町村制公布に伴う町村合併によって、市域では石戸村と中丸村という新村が成立したが、続いて明治二十二年(一八八九)五月以降、村長及び助役の選任が行われた。町村制下の町村役場には町村長、助役、収入役、書記、附属員、使丁の吏員が置かれ、町村長及び助役は、町村会が町村公民(満二十五歳以上で直接国税二円以上の納付者)から選挙をして選出し、県知事がその結果を「認可」する手続を経て決定し、任期は四年で、原則として無給の名誉職となっていた。収入役は町村長が推薦し、町村会で選任され、任期は四年で有給吏員となっていた。
町村制施行時の町村長・助役、収入役の三役のほとんどは戸長・筆生(ひっせい)・連合戸長経験者で占められていた。石戸村村長となった矢部長作は、元荒井村戸長、前職は東間村連合戸長であった人物である。
町村制下の行政事務には、国・県の委任事務が多く含まれていた。国政事務は「機関委任事務(きかんいにんじむ)」と称せられ、村会とは無関係に指揮命令を上部官庁から受け、処理する義務を課せられたもので、戸籍・土地・兵役・教育・河川・道路・伝染病予防などがそれである。その他に、多くの関係法令で規定された府県・郡の行政事務があった。これらに対する経費は村吏の人件費を含めれば村財政の大半を占める大変な負担となった。いわば村役場とは、自治的な公共団体としての執行機関というよりも、政府や府県・郡役所という上級官庁の出先機関として位置づけられていたのである。そのため、村政は多忙をきわめ、任期満了以前に村長・助役の交替する例も少なくはなかった。先の石戸村の矢部長作村長や助役の大沢麒三郎も任期半ばで交替した。
町村合併により、市域はそれまでの十四か村から石戸村・中丸村の二村に集約されたが、このことは村財政にも反映された。町村制は自治体所有の基本財産をつくり、その財産運営によって自治体財政を維持し、税収入はあくまでも補助とする「不要公課町村」を基本理念として、町村財政の確立をはかることも意図していた。そのため、旧村では所有財産を新村の基本財産へ移そうという動きがみられたが、表31からわかるように、中丸村の場合、明治二十二年度、同二十三年度の歳入予算には「財産ヨリ生ズル収入」はまだ計上されておらず、形成過程にあったと考えられる。基本財産とは、土地(学校敷地、畑地、田地)、建物(役場、小学校舎、教員住宅)、国債証書、諸債券(さいけん)、諸株券(かぶけん)、郵便貯金等をさす。

表31 中丸村、明治22・23年度歳入出予算表

(『市史近代』№39より作成)

通常の町村の財源は、国税、府県税の付加税(国庫交付金、県税交付金となる)と直接税(町村税)及び間接税(使用料、手数料等)であった。使用料、手数料、さらに特別村税は条例によって定められ(近代No.三十九)、年度の歳入出予算は議会で議決された後、郡長に報告することになっていた。決算は会計年度の終了から三か月以内に結了することになっていたが、こうした正式手続きを経る村は少なく、実際は「村会ノ認定」を得たとして処理されていた。当時の歳入出予算を表31の中丸村の明治二十三年度予算表でみると、歳出は役場費と教育費で約九割に達しており、行政事務の大半を占めた「機関委任事務」に係わる経費がその半ばを占めていたことがわかる。
町村費の徴収は町村会にまかされていたが、その方法は地価割・戸数割徴収が一般的であり、例外としては現品や夫役(ぶやく)の場合もあった。明治十八年度から国家財政を節約する政府の都合から、「土地に課する町村費は地方七分の一を超してはならない」とされてから、町村費は相対的に戸数割に重くなり、一般村民の負担は大きくなった。したがって、町村費の増大は地方税の増徴(ぞうちょう)を意味し、同十四年以降の松方デフレ政策下の米価と糸価の暴落(ぼうらく)は農民を困窮(こんきゅう)させていた上に、新たに地方税が増徴されて、農民にとっては過酷(かこく)な負担となっていた。表32は、同二十三年度の中丸村の村税賦課総額一覧表であるが、中丸村では営業割が少ないため、新たに「段別割ヲ設ケ土地ニ関スル費用ヲ地価反別二併課(へいか)セハ、行レ易ク又負担シ易クシテ実ニ適法ノ準率(じゅんりつ)ナリ」として「特別税」の賦課(ふか)を「中丸村条例第三号」として決め、徴収することを前提として組まれた見込書である。
表32 中丸村明治二十三年度村税賦課総額一覧表
費 途金 額附 加 税特 別 税
地価割戸別割営業割所得税附加税反別割存置何々税
本村経常費一、〇〇八、九九九三五五、四七五二〇九、九三三二〇、〇〇〇二、六〇〇一五二、五二九一、〇〇八、九九九
元荒川水利土功会経常費四二、七〇〇四二、七〇〇
合 計一、〇〇八、九九九三五五、四七五二〇九、九三三二〇、〇〇〇二、六〇〇一五二、五二九一、〇〇八、九九九
地租金弐千六百三拾六円七拾弐銭
此七分一金 三百七拾六 円六拾七銭 四厘
剰余金弐拾 壱円拾九錢九厘
戸数三百九拾四戸
平均壱戸ニ付金五拾三銭三厘
地方税金弐百五拾円此八厘
本税金壱円ニ付金八銭
本税金拾三円此五分ノ一
本税金壱円ニ付金弐拾銭
総計反別八百廿四円三反九畝拾弐歩
壱反ニ付金壱銭八厘五毛
 内訳 
耕宅地反別五百七拾五町三反壱畝拾三歩
壱反ニ付金弐銭三厘
山林原野反別弐百五拾丁八反七畝廿九歩
壱反ニ付金七厘

(『市史近代』№39より引用)

いずれにせよ、町村制施行後、村長に委任された国家行政事務が確実に実施できるように、町村費についても役場費、会議費、教育費、衛生費、救助費のほか災害予防費及び警備費などの国家的な行財政に関係の深い費目に限り、国税と同様強制的な取り立て方式の適用がなされた。

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