北本市史 通史編 近代

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 近代

第2章 地方体制の確立と地域社会

第4節 地域の生活・文化の動向

3 神社合祀

第一章でも述べたように明治初年には神道国教化に伴って神仏分離政策が遂行された。慶応三年(一八六七)一月三日、王政復古の大号令が出され、三月には祭政一致と神祇(じんぎ)官の再興が布告された。明治新政府は古代天皇制国家の祭政一致を政治的理念としたから、王政復古とはとりもなおさず神祇祭祀(さいし)(国家神道)の興隆をはかることに他ならなかった。明治三年(一八七〇)には大教宣布の詔(みことのり)が出された。これは平田篤胤(あつたね)らの復古神道の考え方を取り入れ、祭政一致に基づく皇道復活を企図し、神道による国民統合の方針を明らかにしたものである。明治政府はこの神道を取り入れることによって、近代的中央集権体制を確立するための国民統合をはかる政治的ねらいを持っていたから、そのために『古事記』や『日本書紀』に依拠(いきょ)した天皇の祖霊としての「神々」の復活がはかられた。同四年には伊勢神宮を頂点として神社の社格を太政官がまつる官幣(かんぺい)社、地方官がまつる国幣(こくへい)社などに分け、さらに、同六年には皇室中心の行事である紀元節・天長節を祝日とし、元始(げんし)祭、神武天皇祭、神嘗(かんなめ)祭などを祭日とした。このようにして皇室を中心とする神祇を、国家統合のための制度の中に位置づけるべく国家神道を制度化していった。その後、明治四十年代に行われた神社の整理・統合事業は、一部神社の社殿・社地を廃し、その祭神は残された神社に合祀(ごうし)するという、近代神社史の中で最大の事件であった。すでに、明治十五年の神官の教導職兼補廃止以降、神官神職に対する優遇化や神職制度の整備は行われていた。

写真90 氷川神社

旧村社 平成4年 下石戸下

写真91 北袋神社

旧村社 荒井

写真92 石戸神社

昭和58年 石戸宿

明治三十九年(一九〇六)四月、政府は日露戦争下の戦勝祈願と武運長久祈願などによる敬神思想の高まりを背景として、官・国幣社に対して従来の官国幣社保存金制度に変って国庫供進制度を定めた。これにより官・国幣社は、国庫からの供進金とこの際設定された基本財産の利子及び賽銭(さいせん)、神札などの社頭収入などで経営されることになった。
次いで同年八月十日の勅令で「神社寺院仏堂合併跡地ノ譲与(じょうよ)ニ関スル件」について「神社寺院仏堂ノ合併ニ因リ不用ニ帰シタル境内官有地ハ官有財産管理ノ必要ノモノヲ除ク他、内務大臣ニ於テ之(これ)ヲ其合併シタル神社寺院仏堂ニ譲与(じょうよ)スルコトヲ得」と令して、諸社の合併が奨励されるようになつた。これによって地方当局は、内務省の意を受けて、半強制的に、規模が不充分であったり、奉仕の態勢ができていない小神社を、適宜(てきぎ)他社に合併させ、原則として村社は行政村ごとに一社、無格社は旧村(字)に一ないし数社に減らされることになった。この神社整理のねらいは神社の合祀(ごうし)により一社あたりの経済的基礎を確立することによって祭祀を厳重に行わせようとすることにあった。この結果、全国の総神社数は一九万二八二七社(明治三十七年六月末現在)から一二万二五九五社(大正三年六月現在)となり、三六・四パーセントの減少となった(『県史通史編五』P一〇五三)。ちなみに『北足立郡事一班』P二六九によれば、明治四十一年十一月における北足立郡神社合併状況は郡や各町村長の努力により「神社崇敬ノ実ヲ挙ケシムル為メ明治四十年二月将来存置スヘキ神社ノ標準ヲ定メ以テ神社合併ノ利益ナルコトヲ各町村長ニ訓達シタルニ、各町村長ハ其意ヲ了解シテ夫々社総代人ヲ勧誘シ、郡モ亦大ニ其勧誘ニ勉メタル結果合併シタルモノ、社数ニ於テ約十分ノ八以上ニ至レリ、」ということであった。なお、市域の状況を『市史近代』P四九八によってみれば、表48のようになる。
表48 北本市域における神社合祀状況
村名
(旧村名)
社 名社 格合 祀 状 況
石 戸 村氷川社
(下石戸上)
村 社(一)大正六年三月六日、無格社愛宕社、須賀社(下石戸上)、無格社稲荷社、二社、八雲社、琴平 社(下石戸下)の六社を合祀
天神社
(石戸宿)
村 社(一)大正十年五月十三日、無格社厳烏社(石戸宿)合祀
氷川社
(高尾)
村 社(一)大正四年五月二十六日、無格社雷電社、須賀社、天神社、厳岛社、八幡社(高尾)の五社を合祀
須賀社
(荒井)
村 社(一)いつ頃か稲荷社(荒井)合祀
(二)大正六年四月四日、無格社浅間社、櫃城社、神明社、境内社須賀社、三峯神社の五社を合祀
中 丸 村氷川社(宮内)村 社 (一)明治四十年五月二十一日、無格社稲荷社、二社、諏訪社(宮内)、村社白山社、境内社稲荷社、天満社、無格社稲荷、須賀社(常光別所)村社氷川社、境内社稲荷社、住吉社、第六天社(深井)村社稲荷社(花の木)村社稲荷社(古市場)の十四社を合祀
(二)大正四年八月十二日境内社天満社、稲荷社の二社を本殿に合祀
氷川社(北中丸)村 社(一)明治三十三年四月十一日、神明社を本殿に合祀
(二)明治四十年五月二十日、無格社須賀社、稲荷社、神明社(北中丸)村社第六天社、無格社八坂社(山中)の五社を合祀
浅間社(東間)村 社(一)いつ頃か愛宕社合祀

(『市史近代』№三○三より引用)


表47にある『新編武蔵風土記稿』は、江戸期の文化七年(一八一〇)~文政十一年(一八二八)に編纂(へんさん)されたもの、『武蔵国郡村誌』は明治八年六月の新政府の示達に基づいて編纂されたもの、『神社明細帳』は明治以降戦前まで公認の神社台帳、『神社明細書』は戦後あらためて神社庁に提出されたものである。これらの資料から、江戸後期、明治初期、明治から戦前、そして現在までの市域の神社の変遷がたどれよう。これによれば明治初期に三八社あったものが、現在十一社となっており、明治末期から大正にかけて三〇社が合祀されたのである。
表47 北本市神社変還表
 新 編 武 蔵 風 土 記 稿武 蔵 国 郡 村 誌神 社 明 細 帳神社明細書・宗教法人名簿
東 間浅間社(村の鎮守)
(末社 天神社 稲荷社)
浅間社(村社)
(末社 天神社 稲荷社)
浅間社(村社 字宮ノ下)
境内神社 稲荷社(字宮ノ下 愛宕社をいつの頃か合祭す と言伝う)天神社浅間社
浅間神社
 境内神社 浅間神社
 稲荷神社 天神社
上深井
下深井
氷川社(上・下の鎮守)
 (末社稲荷社)
第六天社
稲荷社
氷川社(村社) 祭日九/二三
(末社 住吉社 稲荷社 第六天社)
(上・下は維新の頃合併して 深井村となる)
古 市 場稲荷氷川合社(村の鎮守)伊奈利社(村社) 祭日三/二二
花 野 木稲荷社(村の鎮守)伊奈利社(村社) 祭日三/二二
別 所白山鈔理社(村の鎮守)
稲荷社
天王社
白山社(村社) 祭日三/二一
須賀社 祭日六/一五
稲荷社
(明治四年常光別所村と改称)
上宮内
下宮内
氷川社
(末社 稲荷社 簸ノ王 子社弁天社)
稲荷社
諏訪社
氷川社(村社) 祭日七/一八
 天神社(村社中にあり)
諏訪社 祭日七/二八
稲荷社 祭日三/一〇
 (上・下は維新の初め合併 して宮内村となる)
氷川社(村社字堤)
境内神社天満社(大正四年 氷川社本殿へ合祀)厳島社 稲荷社(大正四年氷川社本殿へ合祀)火王子社
明治四十年稲荷社(字堤) 諏訪社(字本村)稲荷社(字 中原)白山社(村社 常光別 所字中上手)
境内社 稲荷社 天満社 稲荷社(字中上手)須賀社 (字中上手)
氷川社(村社深井字権現堂) 境内社
稲荷社 住吉社 第六天社
稲荷社(村社 花ノ木字原) 稲荷社(村社古市場字上手) 以上一四社合祀
氷川神社
境内神社厳島神社
本 宿天神社(村の鎮守)天神社(村社) 祭日六/二五
稲荷社(村社境内にあり)
天神社(村社北本宿宇徳道)
 境内社 稲荷社 御岳社
 明治四年本宿より北本宿へ改 称)
天神社
山 中八幡社
山王社
第六天社
天王社
第六天社(村社) 祭日九/一五
八坂社 祭日九/ 一五
上 中 丸氷川社(村の鎮守)
稲荷社
神明社三字
稲荷社(十社稲荷と号す)
蔵王社
道祖神社
氷川社(村社) 祭日三/一〇
須賀社 祭日六/ 一五
稲荷社 祭日二/一〇
神明社 祭日三/一〇
(上・下は明治八年合併して中丸村となる)
氷川社(村社北中丸字上手耕地)
明治三十三年神明社(北中 丸)
明治四十年須賀社(字上手)
稲荷社(字谷尻原)神明社 (字東)
氷川神社
下 中 丸氷川社(村の鎮守)
諏訪社
稲荷社
第六天社(村社山中字本村耕 地)
八坂社(字新田) 以上六社合祀
(明治十二年中丸に北の冠称 が付される)
石戸宿天神社(村の鑛守)
稲荷社(御殿稲荷と称す)
天神社(村社) 祭日九/二五
稲荷社  祭日二/初午
厳島社 祭日不定
白山社 祭日九/二五
天神社(村社字城山)
 境内神社 稲荷社 太神宮社 (大正十年字城山の厳島 社を合祀)三峰社
稲荷社(字城山)
八雲社(字城山)
白山社(字堀之内)
天神社
 境内神社 須賀神社
 稲荷神社 道六神社


石戸神社
高 尾氷川社(高尾及び荒井、北 袋の三村其外石戸宿、 石戸上村の内にても 镇守となせるなり
弁天社
天神社
八幡社
雷電社
牛頭天王社
氷川社(村社) 祭日六/一八
 本村及び石戸宿村、荒井村、下石戸上村、横見郡高 尾新田の鎖守なり
(末社琴平社)
雷電社 祭日六/二八
八幡社 祭日八/一五
須賀社 祭日六/一五
天神社 祭日一/二五
厳島社 祭日五/一七
氷川社(村社字大宮)
境内神社琴平社
大正四年雷電社(字宮岡)
須賀社(字宮岡)天神社(字宮岡)厳島社(字宮岡)八幡 社(字中井)
以上五社合祀
氷川神社 境内神社琴平社
荒井牛頭天王社(村の鎮守)
浅間社
須賀社(村社) 祭日六/一五
浅間社 祭日六/一
道祖社 祭日六/一〇
稲荷社 祭日二/初午
熊野社 祭日六/一九
櫃城社
神明社
  (北袋村は明治初め本村に合併)
須賀社(村社字中岡)
 境内神社道祖社
 いつころか稲荷社(字東原)
 大正六年浅間社(字東原)
 熊野社(字北袋)
  境内社 稲荷社
 概城神社(字北袋)
 境内社 須賀社 三峰神社
 神明社(字北袋)
 以上八社合祀
北袋神社
須賀神社
 境内神社 道祖社 <





br>北袋神社
神明宮(村の鎮守)
熊野社
下石戸上氷川社(上・下石戸村の鎮守)
天王社
氷川社(村社) 祭日三/ニ一
八/七 九/二九
愛宕社 祭日三/二三 六/二三
氷川社(村社字本村)
 大正六年愛宕社(字北原)
 須賀社(字北原)
稲荷社二社(下石戸下字ニッ家)八雲社(字ニッ家)琴平社 (字ニツ家)
以上六社合祀
氷川神社
下石戸下八雲社 祭日六/一五
金刀比羅社 祭日八/一〇
八雲社(字向郷)
稲荷社(字台原)
天神社(字久保)
諏訪社(字久保)
八宝神社

(『市史民俗』P四九八より引用)


その場合稲荷・第六天社などの民間神道や習合神などが廃社・統合されている。これに対して産土(うぶすな)神などは、地域の神社として郷土の人々の愛着もつよく、神社存置願いが出されたこともあった。しかし、全体として大きな反対もなく神社合祀は政府の考えどおり進行した。以後の神社は、我国の国家神道に位置づけられ制度的に確立されていった。

<< 前のページに戻る