北本市史 通史編 近代

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第3章 第一次大戦後の新展開

第2節 地域産業の発展と動揺

1 生活基盤の整備

中丸村の耕地整理
(1)明治期

写真96 鴻巣町常光村連合耕地整理図

(明治36年 深谷こう家 12)

中丸村は、明治三十五年(一九〇二)に着工した北足立郡鴻巣町・常光村連合耕地整理に属していた。この耕地整理は、県内でも初期に行われたものであり、第五回内国博覧会で一等賞を受賞した模範的なものであった。総工費三万七〇〇〇円の事業で、事業規模、施行地域の性格、その成果からして全国有数のもので、埼玉県を代表するものであった(『県史通史編五』P八四八)という。
この地域は、水田が六七パーセントではあったが、水利の便が悪く、用・悪水兼用で過湿地が多く、生産性が低かった。そのため、この耕地整理で湿田の乾田化が積極的に行われた。整理前には湿田五六町二畝四歩・乾田三七町二反八畝一ニ歩であったものが、整理後は湿田三町五反九畝八歩・乾田八九町七反四畝一六歩になっている。この耕地整理により、湿田は六パーセントに減少し、乾田は二・四倍に増加している。また、肥料代も減少し、区画・道路等の整備が行われ、労力の省力化がはかられた。
(2)大正期
大正四年(一九一五)十月二十八日の『東京日日新聞』(近代N0.一二八)によると、北足立郡中丸村・加納村(現桶川市)・常光村(現鴻巣市)の三村は、北足立勧業主任をともなって県に不作の陳情を行った。最近一〇か年において平作は二年余で、毎年半作のため赤堀・高谷堰沿岸の農民が困窮し、その救済策として耕地整理が急務であると訴えている。
このような状況下で、同六年三月十二日に、北足立郡中丸村・加納村・常光村耕地整理組合が設立され、認可された。事前に取り決められた耕地整理組合規約に従って、同十六日には常光別所の無量寿院で「急施総会」が開催され、同二十三日には、組合長一名、副組合長三名、評議員二五名が選出された。そして同年四月一日に工事が着手された。
この事業は当初から、資金繰りには困難を極め、組合員の出資金のみでは不足していた。大正六年(一九一七)四月には日本勧業銀行代理貸しとして埼玉農工銀行から四〇〇〇円の借り入れをし、返済を同七年一月まで据え置き、二月より五年年賦で返還するという契約を結んでいる。また、同六年五月には組合員四三名が連帯保証人になり、桶川銀行・桶川貯蓄銀行合同融資による六〇〇〇円(内訳四〇〇〇円と二〇〇〇円)の借り入れ契約をしている。このような状況を背景にして、県に対し何回か耕地整理補助金交付願いが提出されている。

写真97 耕地整理後の馬耕

昭和15年ころ(鈴木博家提供)

耕地整理の初期の段階では、水路幹線工事に終始して耕地面には及ばず、用・排水の整備に力を入れていた。特に赤堀川や高谷堀の改修と堰(せき)の改築が主たる事業となっていた。大正七年(一九一八)三月には、耕地整理にともなう中加用水について、用水の新設は認められるが、用水の引き入れ口を赤堀川とすることは認められないとして、計画の変更を求める願いが常光村より提出されている。引き入れ口により、悪水がよどむことも考えられ、村にとっては引き入れ口や堰の位置は村にとって死活問題になることもあった。一つの用水を作ることにより、別の用水の水位が保てなくなることもあり、用水新設は慎重を期さなければならない重要な問題でもあった。この後も赤堀川の改修工事は続けられ、堤塘(ていとう)修築工事が継続的に進められた。
この事業は、大正十年八月一日をもって工事を完了した。事業に要した費用は耕地整理成績調査表によると、工事費が三万九八六六円七銭一厘、そのほかの費用が二万二二〇〇円九三銭三厘であった。
耕地整理完了後の整理概要を整理前と整理後という比較で見てみたい。
表56を見ると、整理後に畑が約八町歩減少し、その他がまったくなくなっていることから、山林や原野がすべて開墾されたのではないかと推察される。この耕地整理により田が三四町も増加し、積極的に水田化が行われたことがわかる。従来この地区は、過湿田でしかも不整形なところが多かったため、牛馬耕が困難であった。しかし、耕地整理によって、一一町も牛馬耕が行われるようになった。また、湿田の乾田化により、単作のみであったこの地でも、二毛作が行われるようになった。
表56 整理前後の面積比較
 整 理 前整 理 後
一一〇町八反七畝〇三歩一四四町八反三畝一九歩
三〇町七反二畝一三歩二二町九反二畝二四歩
そ の 他二四町二反一畝〇九歩
道水路他一六町六畝〇七歩二三町二反九畝一九歩
合 計一八一町八反七畝〇二歩一九一町六畝〇二歩
牛 馬 耕一一町
二毛作付五町五反
表57 反当たり平均
  整 理 前整 理 後増 減
買売価格 二〇〇円五〇〇円三〇〇円
二〇〇円五〇〇円三〇〇円
小作料  七円八円一円
畑 大 麦六円七円一円
大 豆三円四円一円
田 作水 稲一四斗一八斗四斗
畑 作  大 麦三五斗三八斗三斗
小 麦一八斗二〇斗二斗
大 豆八斗一〇斗二斗
水田  
裏作  
大 麦一斗一斗
小 麦一五斗一五斗
紫雲英(れんげ)四〇〇斗四〇〇斗
菜 種一〇斗一〇斗

(両表とも大正十年度北足立郡中丸村・加納村・常光村耕地整理成績調査表より作成)


一反当たりの売買価格が、田畑とも整理前には二〇〇円であったが、整理後は五○○円と一挙に二倍半にはね上った。用・排水の整備と縦横にめぐらされた道路の整備が土地の評価を増大させたわけである。反当たりの収穫量も予想通りに増加し、農業生産力が明らかに向上したことがわかる。

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