北本市史 通史編 近代

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第3章 第一次大戦後の新展開

第2節 地域産業の発展と動揺

1 生活基盤の整備

河川の改修

写真98 洪水

明治43年か(加藤一男家提供)

埼玉県は、利根川・荒川に挾まれ、それらに合流する川はほぼ全県を網羅し、水利には恵まれていたが、その反面、河川氾濫(はんらん)による被害も大きかった。河川法が制定され、国の基本的な河川行政における治水政策が決定されると、大河川の管理は国の直接的管理となり、坂東太郎と異名をとった利根川は比較的早期に着手されたが、県中央を流れる荒川の改修は、ほとんど顧みられないという状況であった。それは河川氾濫がなかったわけではない。周知のように、荒川は、何度となく氾濫(はんらん)を繰り返したが、特に明治四十三年(一九一〇)の大洪水は大きな被害をもたらした(二章四節 図14参照)。同年八月十三日付の『埼玉新報』は、この時の様子を次のように伝えている。


洪水の大惨状
今回の出水は実に予想外の大惨害を蒙(こうむ)り、県下一円殆んど生色なき有様にて、濁流滔々として狂奔する所忽ちにして、水底に葬り去られたる老若男女はその数幾何(いくばく)なるか察するだに慄然(りつぜん)として為すところを知らず。更に汽車電車電信電話の交通機関相次いでその用を為さず。被害地の消息すら確実に知ることを得ざるに至りては、惨又惨の極まりならずや。

この年は、八月一日から八月中旬まで雨が降り続いた。七日からは本格的な大雨となり、九日から十一日未明にかけて暴風雨が襲来し、その後も十六日くらいまで雨の止まない日が続き(『荒川』人文Ⅱ 荒川総合調査報告書P八七)、大きな被害をもたらした。その被害は、県下で死者三二四人、負傷者七七人、家屋の流失一六七九戸、損壊一万六四六八戸、浸水八万五〇〇〇戸に達し、浸水面積は県全面積の約二四パーセントにおよぶ未曾有の大水害であった。
明治四十三年(一九一〇)八月二十五日付の『埼玉新報』によると、北足立郡内の堤防決潰(けっかい)所の急水止工事の必要箇所が大小五八か所もあり、総延長が一三〇〇間にも達し、この時に要した土俵は一〇万個、竹は一〇万本であった。石戸村においても堤防が三か所決潰した。そこで九月一日、水害地方県会議員及び町村長協議会(『県史通史編五』P八二五)が開催され、埼玉水害団体を結成し、それにより未曾有(みぞう)の大水害を受けた地域は協力して善後策を検討することを決定した。
九月二十六日、石戸村村長は、中丸村村長・箕田村村長・小谷村村長とともに、堤防修築の件に関して、県知事に県税免除の陳情を行った。
この大被害を契機として、治水費の増額・治水工事の統一が政治問題化し、政府は国の直轄事業として、河川改修事業に取り組むことになった。六五の河川の改修を定め、第一期河川として二〇の河川の改修を行い、その後第二期河川として残りの四五の河川の改修を行うこととした。荒川は第一期河川に指定されたが、赤羽鉄橋から河口までの下流工事が第一期となり、県内の上流工事は第二期として、後回しとなった。第一期工事の荒川下流工事は、明治四十四年(一九一一)に着工し、大正十二年(一九二三)に終了した。いわゆる荒川放水路の完成であった。
第一期工事終了後も荒川は氾濫し、荒川上流部改修工事の早期実現が望まれた。しかし、第二期工事は、財政上の理由のほか、第一次大戦の勃発(ぼっぱつ)も影響して着工が遅れた。大正二年・三年・五年の県会において、荒川改修工事年期短縮の意見書の政府への提出が再三可決された。同六年には、帝国議会に治水工事に関する達成決議案が提出され、また、民間の早期着工の陳情等もあり、第二期工事である上流工事は、同七年に着工することが決定した。大正六年十一月下旬から八年三月下旬にかけて、河川に関する事業準備のための立入測量が施行されることとなり、石戸村でも施行されることとなった。これと相前後して工事準備のための立入測量が実施され、同八年四月には荒川筋河川台帳が縦覧され、改修工事の実施をみるにいたった。同十年三月、石戸村では、「河川改修工事ニ付土地買収ニ関スル請願書」(案)を内務大臣あてに提出している(近代№六〇)。
新川の開鑿(かいさく)の地区中、左岸の久下村(現熊谷市)から平方村(現上尾市)までと、右岸の北吉見村(現吉見町)から植木村(現川越市)までは、出水の都度多量の肥料分を含有した濁水沃土が沈澱(ちんでん)して、良畑となり、養蚕を通じての収繭量も多かった。そこで、土地の買収に関しては「土地ノ実況ニ基キ相当時価」をもって、買収することを請願している。上流方面は、流域が狭く土地の傾斜も甚だしく、水の勢いが猛烈に急転直下することにより表土が流失し、沃土は少ない土地であるとし、下流方面は、土地が極めて低湿で地質が悪化し、普通作物の生育が充分にならず、山林原野の点在する箇所もあると訴え、自村と比較した場合、土地の価格及び小作料の徴収も約三倍の相違があると訴えていた。このことは河川改修が、土地所有者にとって、利害のからむ重大な問題であったことを示している。
しかし改修目的が、洪水による被害を防止することや水利の改善にあったため、改修工事は「広い河川敷を有する形状を利用して遊水機能を高め、低水路は概(おおむ)ね原状のままとし、屈曲が著しく水流を妨げたり河岸の維持が困難な所や、新たに高水敷を設けた所には、新川を開鑿する」ものであった(『荒川』人文Ⅱ 荒川総合調査報告書 P二〇)。この改修工事は、流路の拡幅と水深を深める掘削(くっさく)と、浚渫(しゅんせつ)や新堤の築堤を中心として、赤羽鉄橋から武川村(現川本町)までと支流二河川を範囲として行われた。しかし、戦時体制下に入ると予算は削減され、ほとんど休止状態になり、実際に工事が終了したのは、昭和二十九年であった。

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