北本市史 通史編 近代

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第3章 第一次大戦後の新展開

第2節 地域産業の発展と動揺

2 北本の特用農産物

蚕業
明治初期に編纂された『武蔵国郡村誌』には、市域に属する村々の項に繭や蚕卵紙の記載がない。養蚕が始められた時期が明治十年代であったという伝承があるが、これも確かな資料はない(『市史民俗』P一九一)。 
表60 1軒当りの平均収繭(けん)高
年 度春 蚕夏秋蚕
 
昭和1年31.722.3
  2年32.324.3
  3年40.923.7
  4年22.129.5
  5年41.035.6
  6年45.736.4
  7年36.932.3
  8年35.436.7
  9年32.630.2
  10年34.525.9
  11年35.629.2
  12年32.025.2
  13年25.020.2

埼玉県統計書石戸村・中丸村の収繭高・養蚕戸数より算出 (『市史民族』P195より引用)


明治中期に県内各地に伝習所が開設され、技術講習が行われるようになると、養蚕業は県内各地に広がっていった。
市域では、明治四十一年(一九〇八)一月に中丸村で蚕業短期講習が県農会により主催され、四十二年九月に石戸村では石戸村教育会主催で玉繭(たままゆ)講習が開催された(『国民新聞』明治四十二年九月二十三日)。同四十五年四月には中丸小学校内に蚕業講習所を開設し蚕業技手が講師として招かれ、技術講習が実施された。大正にはいると、中丸村では同四年(一九一五)に蚕桑講話が行われ、石戸村では五年に屑繭(くずまゆ)整理講習、六年に繭の品評会が行われた。
大正十二年、中丸養蚕組合が設立された(近代№一二六)。養蚕規約によると、この組合は蚕業を改良発達させることを目的とし、桑園の設置・病虫害駆除・蚕飼育等の講話講習を行うことなど、細かに事業を規定している。蚕品種の改良や飼育法の改善により、繭の生産性は上がり、生糸相場の影響を受けながらも、蚕業は昭和初期まで農村の重要な財源の一つとなっていた。

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