北本市史 通史編 近代

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第3章 第一次大戦後の新展開

第3節 国民教育体制の拡充

1 小学校の拡充と教育の新動向

綴方教育への取り組み
昭和初期を舞台に展開された教育実践の一つに綴方教育がある。昭和初期には、ほとんどの学校で綴方主任を中心に熱心に行われた。昭和四年に中丸小学校を卒業した鈴木信太郎(北本市宮内)は、「三年の斉藤先生は、綴方の指導が大変熱心で、児童にたくさん書かせてその中からよい文を選び、発表し合いました。」と語っている(『中丸小学校八〇年史』Pーニ)。昭和四年というと、世界経済の恐慌を背景に教員の俸給不払・減俸・馘首(かくしゅ)が全国的に発生した年であるが、その年はわが国の綴方教育史上でも注目すべき年でもあった。すなわち、日本の生活綴方の第一ページといわれる雜誌『綴方生活』(主幹小砂丘忠義)が文園社から創刊される一方、東北地方の生活綴方連動の拠点となった北方教育社(秋田・成田忠久)が結成された(雑誌『北方教育』昭和五年創刊)。
ところで、昭和初期の綴方教育といえば石戸小学校の実践を忘れることはできない。その中心的指導者は同校訓導綱島憲次であった。彼は大正十二年(ー九三ーー)に石戸小学校に赴任(ふにん)して間もなく、綴方教育の振興に着手した。その動機について、彼は綴方教育が他の教科にくらべて劣っているのに気付いたからであると回想している(『石戸小学校六〇年史』「石戸小学校の思い出」P127)が、即座に赴任校の弱点を見ぬくけい眼はさすがである。
学校の弱点を補強し、学校のレベル・アップを目指して始まった綱島主任の綴方教育は、どのような指導方針と指導方法によって行われたのだろうか。そのことを知るのに重要な資料として、綱島氏所有の「研究物綴」(プリント物のみ)がある。この綴には大正末年(一九二六)から昭和八年に至る間の読方・綴方および郷土教育に関する資料が収録されており、そこから彼の各教育に対する基本的考え方を窺(うかが)うことができる。
「綴方」についてみると、すでに大正末年には尋常科全学年の指導計画が作成され、昭和三年には尋常科第一学年から高等科第二学年に至る全学年の指導方針を設定するとともに、指導の具体的な計画を毎学年学期別に詳細に定めていた(昭和三年十一月「綴方指導方針」)。ここには全学年を通しての指導の系統化・体系化が目指されており、そこに本計画の一大特色を見出すことができる。その後も引き続き検討を重ね、昭和六年七月には石戸尋常高等小学校の「綴方指導」の基本要綱がまとめられた。そしてついに集大成案ともいえる「綴方指導系統案」(作成年月日不詳)が出来上った。これによれば、綴方は(一)自己の生活を内省し、統一してこれを文章の形に表現すること、(二)それによって真に自己を知り、さらに自己の生活を高め、あるいは深めてゆくこと、の二つを目的とするから、その指導法には生活指導と表現指導の二つが認められる。そうした上で「本校綴方指導方針」を「生活の綴方を実践せしめ、児童各自の生活の向上と深化を図る」ことであるとし、次のような七項目の具体的方針を示した。
(1)生活指導
 綴方生活(観(み)る作用、省(かえりみ)る作用、綴る作用、味わう作用)の指導を充分にし、其の深化と拡充とを図り、児童の生活に及ぼす指導を重視する。
(2)文章観を学年相応に高めて、其の確立を図る。
 ①生活を深めて………………生活の深みのある文
 ②自己の生活を中心として…個性のある文
 ③自分の言葉で………………技巧にとらわれない文
 ④如実に書き表す……………素朴純真な文
(3)文章に依る指導を主体として具体的に指導すること。
 ①文集の活用(郡文集、其の他)
 ②文章選択上の注意
  (イ)児童の生活に近いもの(ロ)想のカの強いもの
  (ハ)表現形式(ニ)着想(ホ)読解の障碍(しょうがい)少なきもの
(4)児童文の研究をなし、適切なる指導をなすこと。
(5)綴る興味を旺盛ならしめ、綴ることを多くする。
(6)作品愛の啓培(けいばい)を図る。
(7)郷土的綴方・職業指導と綴方に注意して取扱うこと。

図19 綴方指導の内容

続いて「綴方指導の内容」を上記のように示した。
そして、さらに各学年ごとに指導方針及び取材の指導、綴る前の指導、記述の指導、推敲(すいこう)の指導、鑑賞批評及び文話の指導等についてその内容を明らかにし、各学年の終わりに月次別の参考文題と指導要項を示している。
石戸尋常高等小学校の綴方教育は、綱島主任を中心として右のような方針のもとに組織的・計画的に行われたが、その結果、『北足立郡児童文集』(昭和四年六月十五日創刊、郡教育会発行)には、必ず本校児童の優(すぐ)れた作品が掲戰され、石戸小学校は綴方優秀校としてその名を県下のみでなく全国にとどろかせた。次に掲げる昭和八年八月十一日付、和歌山県新宮第一尋常小学校綴方研究部からの綴方指導に関する依頼は、その一例証である。
謹啓
稀有の猛暑で御座ゐますが、先生には御健在にて邦家教育更新の為め益々御精進の御事、誠に慶賀の至りに存じます。
偖て、綴方教育の現状を觀まするに正に一大轉機に會し日に更新しつゝ躍如たるものがあることゝ存じます。私どもは綴方指導に於て兒童のよき文に對する明確な認識をもっことが其の成績向上の上に最も大切なことゝ考へまして、此点につき研究致し度存じます。過般貴道府縣市當局に綴方優秀校照會致しました處、幸に貴校を御選定下さいました。
殘暑蒸せ暑き砌恐縮で御座ゐますが、左記の事項に就きまして先生の御高見を承り度謹んで御願申上ます。
     記
ー、よき兒童文とは
二、よき兒童詩とは
 ◆自由詩、童謠、和歌、俳句等
三、優秀文數篇(學年別)又は文集御惠送願います
   乍勝手調査整理の都合もありますので、來る九月末日までに御依頼申上ます。
昭和七年八月十一日

和歌山縣新宮第一尋常小學校綴方研究部

石戸尋常高等小学校長殿

ところで、綱島綴方主任を中心として実践された石戸尋常高等小学校の綴方教育は、富原義徳(ふはらよしのり)の「土の綴方」の考え方を底本としている。このことは先に紹介した「研究物綴」の中に「土の綴方」の本質的部分が抄録され、それとの比較対照によって明らかとなる。また、同じ綴りの中に次のような「綴方学習指針」が収められている。
(一)綴方とは自分の心を描くことである。真実な心は真実のこもった文としてきっと表はれる。
(1)自分の心を信じ、(2)自分の生活を中心として、(3)自分のことばで、(4)心をこめて、(5)ありのままに、すなほに正直にくはしく。
(二)よい文とは
(1)何よりも作者の真実な心が内にこもってゐるもの
(2)作者の心持ちがあり<と文に流れてゐるもの
(3)うまさを誇る文ではなく、すなほな心からしみじみと書かれたもの
(4)心持と言葉とがよく調和してゐるもの
(5)心持ちを表はすのに最も適切な文の形をとったもの(詩・散文・劇・消息(しょうそく)・感想・日記等)
(三)綴る心はかうしてのびる。
(1)よく見て深くかへり見る。
(2)よく書く、そして考へる。
 一寸(ちょっと)見てはつまらぬことと思はれることでも書いてみよ。かくことによって心を捉へよ。
(3)よく味ふ。そして感ずる。
 まづ自分の作った文を。他人の書いた文を。しみじみと味はってみる。
(四)綴る上のこと。そのほか
(1)材料を心に生々ととらへる。(2)静かに想をととのへる。(3)事柄をきめる。(4)心持の流れのまゝに文を自然に書いて行く。(5)まだ心にこなされてゐないキザな言葉をまねしない様に。(6)情(ココロ)・景(ケシキ)・語(コトバ)━描写の三つの視点です(7)出来たらいつでも先生に出して見ていただく(いくどもいくどもよんでこれでよいと云う時に出しなさい)。(8)先生やお友達の批評をきいて再びなほすもよいし、作りなほしてもよろしい。(9)文話をよくきく。文集をよむ。(10)作品集に記録する。(11)自分の文集に保存する。
(五)作品の尊重
 自分の大切な心持を書いた文である。自分にとっては何よりも大切な心の姿である。そまつにしてはならぬ。
やや長文の引用になったが、これはそのまま富原の「綴り方学習指針」であって、彼の『教室用綴り方』(昭和六年刊)に収載されている。ここに富原義徳が当時の綴方教育の実践に与えた影響の大きさを窺(うかが)い知ることができる。また、「綴方指導系統案」の中の学年別指導プランには、千葉春雄(雑誌『教育・国語教育』を主宰)の影響もみられる。

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