北本市史 通史編 近代

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第3章 第一次大戦後の新展開

第3節 国民教育体制の拡充

2 青年教育の再編

実業補習学校から公民学校へ
大正期には、デモクラシー思想を背景に大衆的基礎をもつ一大政治運動が昂揚(こうよう)した。いわゆる普選運動である。「日本史年表」を開いてみると、大正八年(ー九一九)ごろから普選期成大会が各地で開かれ、その運動の環(わ)が大きく広がっている様子が知られる。そうした中で普選法案が何度も帝国議会(衆議院)に提出されたが、その都度(つど)否決された。しかし、同十四年三月、ついに普通選挙法案が帝国議会を通過し、ここに念願の普通選挙法が成立した。
こうした政治情勢の新しい展開の中で、内務・文部両省の靑年教育に対する施策が一元化されるとともに、実業補規程を改正し、その目的を「小学校ノ教科ヲ卒(お)へ職業二従事スル者ニ対シ職業ニ関スル知識技能ヲ授(さず)クルトニ国民生活ニ須要(しゅよう)ナル教育ヲ為ス」(第一条)と定め、職業教育と公民教育をもって実業補習教育の二大眼目(がんもく)とする方針を明らかにした。そして第八条に「実業補習学校ニ於テ八適当ナル学科目二於テ法制上ノ知識其ノ他国民公民トシテ心得(う)へキ事項ヲ授(さず)ケ又経済観念ノ養成ニ力(つと)ムルヲ要ス」との条文を示した。ここにおいて実業補習学校は、公民教育重視の方向へ質的転換したが、その際文部省は公民教育調査会を設け(大正十一年十二月)、その教授内容等について具体的な検討を行った。その結果、大正十三年(一九二四)七月「実業補習学校公民科教授要綱竝(ならびに)其ノ教授要旨」の成案を得、同年十月九日、それを文部省訓令(第一五号)をもって公布した。
この「教授要綱」は、文部書記官兼参事官だった木村正義が幹事で、清水澄(行政裁判所評定官)・穂積重遠(東大教授)・渡辺鉄蔵・佐藤寛次その他の学者と、下村寿一・武部欽一・潮恵之輔・田沢義鋪ら文部・内務官僚を調査員として作成されたものである。「農村用」と「都市用」からなり、農村の実業補習学校においては三年間、都市の実業補習学校においては二年間に約ー〇〇時間教授することを標準とし、各学年一五の単元が配当されている。それは次のとおりであって、子どもの生活経験の拡大に対応して教材を配列する方法が採られている(文部省社会教育局編『実業補習教育の沿革と現況』P六八~八一)。
第一学年
ー  人卜社会
ニ  我ヵ家
三  親子
四  親族
五  戸籍相続
六  財産
七  職業
八  生産
九  一家ノ生計
十  保健卜衛生
十ー 警察
十二 神社、宗教
十三 教育
十四 農村卜青年
十五 我ガ郷土
第二学年
ー  我ガ町村
二  町村ノ自治
三  公民
四  議員ノ選挙
五  町村会
六  町村役場
七  町村ノ財政
八  町村ノ財産
九  租税
十  産業組合
十一 金融
十二 農会
十三 農村ノ開発
十四 府県ノ行政
十五 我ガ府県
第三学年
ー  我ガ国家
二  天皇
三  臣民、領土
四  立憲政治
五  帝国議会
六  国務大臣 枢密顧問(すうみつこもん)
七  行政官庁
ハ  国法
九  裁判所
十  国防
十一 国交
十二 交通
十三 我ヵ国ノ産業
十四 社会改善
十五 世界卜日本

この「教授要綱」は、実業補習学校のみでなく、それ以後のほとんどあらゆる学校における公民教育の規範とされたものであって、その歴史的意義は大きい。
ところで、大正五年(ー九一六)十月から同八年六月に至る間、県政を担当した岡田知事は、実業補習学校の設置を促進するとともにその内容の充実を期して同七年三月十五日、実業補習学校施設要項を制定公布した(『埼玉県教育史第五巻』P三九六~三九八)。この「施設要項」は国の施策と関連して幾度か改正されたが、同十三年二月九日には校名に市町村名を冠(かん)し、公民学校とすること、修身科を「修身及公民」にすること、等を含む注目すべき改正を行った。ここに本県の実業補習学校は公民学校に改組されることとなり、中丸村では大正十三年(一九二四)九月二十六日「実業補習学校学則改正認可禀請(りんせい)」を県知事に提出し、同年十月十六日に認可され、中丸公民学校となった(近代№ニー四)。「学則」によれば、本校は中丸尋常高等小学校に併設され、男子部・女子部を置き、その課程は本科と研究科とし、本科はさらに前期と後期に分けられた。本科の修業年限は男子部・女子部ともに同じであって、前期二年、後期二年であった。同校の目的は「小学校ノ教科ヲ卒へ農業ニ従事スル者ニ対シ、農業ニ必要ナル知識技能ヲ授(さず)クルト共ニ国民生活ニ須要(しゅよう)ナル教育ヲナス」(第一条)と定められ、その科目は男子部は修身及び公民、国語、数学、農業、理科、体操であり、前・後期を通じて各科目の毎週授業時数は一定であって、普通学科のそれが全体の八〇パーセント以上に及んでいる。女子部は修身及び公民、国語、数学、家事、裁縫、農業、体操、音楽であって、前・後期を通して裁縫に特に多くの時間が配当され、それは全授業時数の半分を占めている。
学期は小学校と同じく各学年三学期制をとっているが、授業は男女とも冬の農閑期を中心に行われた。男子部は十一月から翌年三月にかけて、女子部は一月から三月の時期に集中的に行われた。一年間における授業の日数・時数・時間は、男子と女子との間に違いがあった。本科生の場合、年間授業日数は前・後期とも男子の方が数日多いが、その授業時数は男子が二〇八時間、女子が五五六時間であって、女子の時数は男子の時数の二・五倍以上に及んでいる。しかも先に指摘したように、その時数の半分が裁縫の時間に充当されていたことを勘案(かんあん)すれば、公民学校女子部は実質的には冬期の農閑期に開校される裁縫学校であったといってよいだろう。同時に、そのことは裁縫が当時の女性、とくに良妻賢母にとって欠くことのできない大事な実用的教養と見做(みな)されていたことを示唆(しさ)している。授業の時間は、女子は午前九時から午後四時に特定されているが、男子は月ないし季節によって異なっており、四月・五月・十月は午後三時から五時まで、六月~九月は午後三時~六時、十一月~三月は午後七時~九時までであった。大正十年(一九ニー)に中丸高等小学校を卒業して実業補習学校に入学し、公民学校本科から研究科に学んだ柳井秀松(常光別所)は、
「私が夜学に入学した当時は、夜学の名は未だ中丸村立実業補習学校と呼ばれ、公民学校に代ったのは大正十二年頃(事実は十三年 筆者注)かと思います。この年は、関東大震災のため夜学は一年休校されました。私は小学校卒業と同時に青年団に入りましたが、青年団に在団するしないを問わず希望する者は誰でも全部夜学に入学できました。(中略)夜学は三(ママ)か年で卒業とは言え、農閑期だけの僅(わず)か三・四か月がーか年でした。夜学の始業は毎年十二月の中旬で修業式は翌年の三月末日でした。本科は前期ニケ年、後期ニケ年でその後に研究科があり、全部終って卒業することができました。授業の科目は昔ながらの読み・書き・そろばん、当時の言葉で言えば読み方・算術・そろばんでした。小学校の先生が交代でそれぞれ専門的な学科を分担して教授してくださいました。始業時間は月によって異なり、十二月と一月は午後七時、二月三月は午後八時で、授業時間はーー時間位で中間に一五分の休憩がありました。なお正月には、一週間から十日位明るいうちに授業の終る昼学がありました。学科の授業には特に教科書を使いませんでした。読み・書きの授業ですと、先生が修身や青年の進むべき道についての参考書を読んで黒板に書き、生徒はそれを聞いたり読んだりして筆記する程度でした。そろばんは各自が持参して、初歩より叮嚀(ていねい)に教授して頂きました。当時は小学校を卒業して上級学校へ進学する生徒は割合に少なく、多くの者は卒業後各自の目的に向って東京へ又は他町村へ就職又は弟子奉公に進んだため、公民学校の入学者は殊に少なく大体二十人前後でした。それは入学当時だけで、次第にその数は減(へ)っていきました。夜学のこと故(ゆえ)出席率は特に悪く、雨・風・雪の夜などはひどいもので生徒二人か三人と言うことが何度かありました。当時は未だ自転車の数もいたって少なく、まして夜など乗り出さなかったので学校から遠い者は通学が大変だったようでした。寒い北風がヒューヒューと音を立てて吹き荒れる夜、鳥打帽子に外套(がいとう)を着て筆記帳を包んだ小さい風呂敷包みをかかえ、そろばんをさげてカラコロと下駄の音を響かせながら夜道を夜学へ通ったのも、今となってはつらいような又勇気の湧くような思い出です。」

と回想している(『中丸小学校八〇年史』Pー〇五)。その彼は、本校研究科の課程を卒えるまで一日も休まず冬の夜道を通いつづけ、卒業式には卒(お)業証書と合わせて精勤賞を授与された。

写真125 公民学校卒業証書

(『中丸小学校80年史』P106より)

一方、石戸村にも大正十三年(一九二四)十二月公民学校の設置が認可された。同村では実業補習学校を設置せず、青年教育は専ら教育会・青年会等の活動の一環として自主的に行ってきたという経緯からして、公民学校は実補の学則改正によって誕生したのではなく、新たに設けられた学校であった。といっても、それは独立校舎を持ったのではなく、他と同様に尋常高等小学校に併置(へいち)されたものである。本校の目的・組織(男子部・女子部)・課程(本科・研究科、前期・後期)・学科目等の内容は、前出の「施設要項」等の県基準に準拠(じゅんきょ)しているのでいずれの公民学校もほぼ同じである。だが、中丸公民学校に比して石戸公民学校の教育的特徴は、本科男子部後期課程の修業年限が三か年であること、本科男子前期課程においては修身及公民・国語・数学・理科・体操等の普通学科を主とし、後期課程では職業科目の農業に多くの時間を配当していることである。この後者の特徴は、この当時の公民学校教育の一般的傾向であったといってよい。女子部の教育は前・後期を通して「家事・裁縫」に多くの時間が充(あ)てられ、裁縫学校的性格を露出しているが、後期には一層その性格が強い(近代№ニー五)。

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